8.戸惑い14/15

14

勇也は飛ぶように谷川町へと急いだ。
早く、早く行かなければ!
どうしても行かなければならない気がする。
勇也はそう感じていた。
なぜだ。
なぜだろう。
なぜ唯の返事も訊かずして谷川町に行かなければならなかったのか。
自分の好きな唯ではなく、本屋の子との約束を守るというのか?
わからない。
わからない。
しかし、どうしても行かなければならない気がした。



「あれだ、あれに違いない!」
コンタクトをしてない勇也だったが、そう直感した。実際には全然見えていないのだが。
腕時計はもう9時前を指していた。
更に行くと、本屋が見えて来た。
本当に『ブックスファイン−谷川町店−』と看板に書かれていた。
しかし、既に明かりは消えていた。
「そ、そんな……」
勇也はため息をついた。
その瞬間、目の前に誰かが現れた。
「うわっ!!」
かなりのスピードで走っていたのだ。バランスを崩したのは言うまでもない。
ドンガラガッシャーン!!
勇也は自転車ごと電柱に突っ込んだ。
暫くして、勇也はゆっくりと立ち上がった。
そしてそいつの前へと歩いて行った。
「あんたなあ、こんな所に突っ立ってたら危ないだろ!」
「す、すいませんでした。私がこんな所にいたから……ってあなたは!」
「えっ!」
勇也はよくわからなかったので、もう少し近づいた。
そして驚く。
「君はあの本屋の……」
信じられなかった。
こんな所で彼女に会えるとは。
この偶然に我を忘れそうになる。
いや、本当にそうなのか。ここに来たら彼女に会えるかもしれない。だから来たのではないか。
でも、どうして彼女がここに来る必要があるのか。
そう考えれば、やはりこの出会いは偶然なのだ。
彼女は悲しそうな顔をしていた。
「どうしたんだよ、そんな顔して……」
「あの、私……『アルファ』を取りに来たんです」
「!!」
「でも、向こうの仕事が終わってから来たからやっぱり間に合わなかったんです」
その言葉に勇也は感動した。なんとも言えない気持ちになる。
「あれだけ取りに行けって言ってたのに俺が帰っちゃったから取りに来てくれたのか?」
彼女は恥ずかしそうに答える。
「え、あの、その……あの時は私もちょっと悪かったかなって……だから、ね」
なんか可愛いと思った。
「でも、俺がまた君の店へ行くとは限らないじゃないか。あの後すぐにどっかの店で買っていたかもしれないのに」
「大丈夫です。私、信じてましたから」
「えっ!」
勇也はなんか恥ずかしかった。
「だから今、あなたがここにいるんじゃないですか」
「…………」
勇也は言葉を失ってしまった。
しかし恥ずかしさを紛らわそうとつい反抗してしまう。
「ち、違うよ。たまたまここを通りかかったんだよ」
「本当に?」
その子はイタズラっぽく訊く。

勇也はどう答えたらいいか戸惑ってしまったが、そんなほんわかした状態をぶち壊したものがあった。
「うっ!」
突然右膝に激痛が走った。
勇也は右膝を押さえる。
その変化に本屋の子も気付いた。
「どうしたの?」
彼女は勇也の元に駆け寄った。
彼女が近づいて来ると、勇也は右膝を隠すような姿勢を取った。
「いや、なんでもないよ」
「そんなことないでしょ?だってとても辛そうだよ」
「何でもないって!」
勇也は右膝を隠す。
「そうか、さっき転んだ時の!」

彼女の言葉は図星だった。
さっき転んだ時に、右膝を思いっきり打ったみたいなのだ。
折れているということはなさそうだが、痛みはかなり酷い。
痛みというものは徐々に出て来るものなのだろうか。
さっきまでは全然痛くなかったのに。
一度意識してしまうともうその痛みは消せなかった。
どうすることもできない。

「それじゃ俺、帰るから……」
「そんな!」
これが彼女に迷惑を掛けまいとする勇也のせめてもの言葉だった。
勇也は彼女を残して電柱の所へと歩いていった。
しかし、よく見ると勇也の愛用のチャリもダメージを負っていた。
前輪の辺りはもう目も当てられなかった。
このチャリは、勇也がK高校付属中学に入った時に買って貰ったマウンテンバイクであった。もう4年半も乗って来た。大切に使って来た。
このチャリにはこの谷川の地での想い出がいっぱい詰まっている。愛着もかなりあった。
しかし、もう修理もできそうにない。

勇也は駅の方に足を向けた。
そのままゆっくりと歩き出すと、あの子が両手を広げて勇也の行く手を塞いだ。
「だめだよ!このまま歩いて帰ったらあなた倒れちゃうよ!!」
しかし勇也は返事もせず、そのまま歩いて行こうとした。
これ以上彼女に迷惑を掛けたくなかったのだ。
だが、その行動は逆に彼女を不安にさせてしまった。
「だめっ!!」
「うわっ!!」
その子がいきなり勇也の元に歩み寄ったので、勇也はバランスを崩した。
「ああっ、大丈夫!」
その子は血相を変えて勇也を抱き起こす。
「き、気にしなくたっていいって……」
「そんなこと言わないでよ。私の責任なんだから!」
一番訊きたくなかった言葉である。勇也は必死で反論する。
「違う!君のせいじゃないって!俺がコンタクトもせずに夜道を走っていたから悪いんだ」
「私が悪いの!」
「俺だって!」
「私が悪いのよ!」
「だから俺だって言ってるだろ!」
また言い争いになってしまった。こんなに言い争いをしたのは彼女が初めてだった。
「だーかーらー俺がだって言ってるだろ!」
「あなたが悪いのよ!」
「違うって君が悪い―――――ん?」
「そう、私が悪いんだよ」
「あっ、やられた!」
勇也ははめられたと思った。
しかしどうしてここまで俺なんかのことを気遣ってくれるのだと考えてしまう。
よほど責任感の強い子なのか、はたまた……
とにかく変わっている子だと思った。


こうなっては仕方なく、勇也は諦めて彼女に従うことにした。
「どれ、ちょっと見せて」
その子は勇也の右膝を見た。
「ああ、こんなに血が出てるじゃない!どうして早く言わないのよ!」
そう言われて勇也自身も改めて右膝を見てみた。
ジーパンには大きな穴が開き、膝からから血が流れ出ていた。
どうりで痛かった訳である。
彼女はそれを見て、自分の白いハンカチを取り出した。
「えっ、何を?」
勇也はその子の顔を見つめる。
彼女は勇也の右膝をハンカチで縛ってくれた。
勇也はそのきれいな白いハンカチが赤く染まっていくのがなんとも嫌だった。
取ろうとすると、彼女に腕を掴まれた。
「もう、だめだって言ってるでしょ!」
勇也はなんとも恥ずかしかった。
女の子に触れることなど滅多にないからだ。
この前、唯の手を握った時は我を忘れていたので恥ずかしくなかったが、今回は本屋の子の方から握って来たのだ。
これ程恥ずかしいことはなかった。
そのため、どうしたらいいかわからなくなり、彼女の言葉に素直に従ってしまうのだった。


勇也は彼女の肩を借りてゆっくりと立ち上がった。
「……す、すまない」
「気にしないで。すべて私の責任ですから」
「んーだからそれに関しては君は何も悪くないと思う。そんなに自分を責めないでくれよ。なんか俺まで罪悪感が沸いて来るんだよ」
「そうなの?」
「ああ」
「そう言えば、家はこの辺なの?」
なんか彼女のペースに乗せられ始めた気がした。
「えーと、伊東駅のすぐ近くだよ」
「ええっ!伊東駅ってここから8キロ位あるよ?どうしてこんな所に……そうかやっぱりここに雑誌を取りに来てくれたんだね」
勇也はその場の雰囲気に流されて、つい「ああ」と言ってしまった。
「やっぱりそうだったんだ。私の無茶を訊いてくれたんだね。ありがとう」
その時の彼女の笑顔は何ともたまらなかった。
一瞬膝の痛みを忘れてしまう程だった。
「ん、でも私もあなたの為にここに来たんだった。ふふ、おあいこだね」
勇也はその時、彼女がいれば他はどうなってもいいような気がした。


勇也はその子に肩を貸してもらって谷川町駅へと歩いて行った。彼女は伊東駅まで勇也を送ってくれると言う。
こういう事態であるとはいえ、女の子に肩を貸して貰うことなんて初めてだった。
歩いている間、通行人がジロジロと見る。
これは何とも恥ずかしい。
しかし、彼女は平然としている。
「ねえ、君は恥ずかしくないのか?」
「何が?」
「何がって……俺とこうして歩いていることだよ」
「だってこれは仕方ないじゃない。あなたの膝の傷を見れば誰だって納得すると思うけど」
「そ、そういうもんなのか?」
「そういうものなの」
やっぱりこの子は変わっていると思った。妙なポリシーを持っているのだ。何か勇也に似ている。
「あ、谷川町駅が見えて来たよ」
「そう言えば、君の家はこの辺なのかい?」
「違うよ」
あっさりと否定された。
「じゃあ……」
「あの本屋の近くなの」
「えっ、それじゃ全然方向が違うじゃないか!」
すると、その子は上目遣いをして勇也を見た。
「怪我してるあなたを放って帰れる訳ないじゃない!」
勇也はその言葉にまたドキッとしてしまった。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
神代唯に対する気持ちとはやはり違っている気がした。
確かに神代さんも俺のことを褒めてくれた。
もっと自分に自信を持っていいって。
そんな俺に自信を与えてくれる神代さんが好きになったのかもしれない。
でも、この子には何か違うものを感じる。
俺が好きになってもらうのではなく、俺が好きと感じる。
相手の気持ちに答えるだけでなく、自分の気持ちを相手に伝えたい。
何かそんな気がしてくるのだ。
いや、好きと言うのとは違うのかもしれない。
ただこの子と一緒にいたい、そう感じた。
しかし、時間とは無常だ。
あっという間に伊東駅に着いてしまった。
電車に乗っている間、勇也を座らせて、彼女は勇也の前に立っていた。
ずっと勇也の右膝を心配そうに見つめていた。
勇也はホームへと降りた。
彼女も降りる。
「ここまででいいよ」
「えっ、そんな中途半端なこと出来ないよ。あなたの家まで送らせて」
「そこまで迷惑掛けられないよ。その気持ちだけ貰っておくから」
「……わかったわ、あなたがそこまで言うなら」


暫くして彼女は反対方向のホームに現れた。
当然のように勇也はその場に立っていた。
彼女は勇也に向かい合うように立った。
そして電車がやって来る。
勇也は笑って見せた。
すると、彼女も微笑んでくれた。
勇也は彼女をじっと見る。
彼女も勇也をじっと見る。
やがて、電車のベルが鳴り始めた。
「……あのさ」
「なに?」
「あ、あの、その……おやすみ」
「うん」
ガタ。
ドアはそのまま閉まった。
プウ―――――ン。
電車はゆっくりと走り出した。
勇也はそれをじっと見ていた。
本当は、彼女の名前を、住所を、電話番号を訊きたかった。
だが、勇也にはそんな勇気はなかった。
今時の奴らなら容易く出来ることであるのに。
でも出来なかった。
拒絶されるのが怖かったのだ。
意固地なしである。
もう会えないかもしれないのに。



15

勇也には3日間の臨休があった。
剣ノ山に閉じこめられていた間の日曜日2日分と第2土曜の分の計3日である。
本当はすぐにもあの本屋へ行きたかった。
しかし、昨日の膝の痛みの為、体が言うことを訊かなかった。
それ以前に唯に会わなくてはならないのに、どうしても電話する気にはなれなかった。
自分から告白しておいてごめんなどと、誰が言えるであろうか。
唯のことは好きだ。
しかし今、勇也の心にはあの本屋の子が棲み着いていた。
まだ会ったばかりなのに、その存在は唯よりも大きくなっていた。
だから唯には会えなかった。
こんな気持ちで唯には会えなかった。
結局、3日のうちの2日間は家でゴロゴロとしていた。
3日目、勇也が目を覚ますと、既に日が高く上っていた。
この3日間ずっとそうである。
勇也は起き上がり、軽く右膝を動かしてみる。
この日になると、膝の痛みもだいぶ和らいでいた。
やっと自由に歩ける程度になったのだ。
勇也は膝に回復を知って、すぐにでもあの本屋に行きたくなった。
気付いた時には家を飛び出していた。
よく考えると愛用のチャリは他界していたので、妹のチャリを無断拝借することにした。
電車で行った方が早いとは思ったが、正直言って金がなかった。
『新谷川急行』恐るべし。
普通の電車とこの急行を合わせると、片道860円もかかるのだ。
少ない小遣いをやりくりする勇也にとってはかなりの痛手だった。
勇也は死にそうな位に飛ばして進んだ。
もう一度あの子に会いたい!
会いたいんだ!
そう思うと自然とペダルをこぐ足が速まるのだった。


 

今中の近くを猛スピードで突っ走っていると、誰かに呼び止められた。
勇也は慌てて急ブレーキをかけた。
「あれ、水島さんじゃないか」
それは由美子だった。制服を着ている。
「今日は学校じゃないのか?」
「何訳わからないこと言ってるのよ。今何時だと思ってるの?」
「えっ!」
勇也は左腕を見た。腕時計は既に3時半を回っていた。
「あれ、もうこんな時間だったのか……」
「まったく……ま、無事に帰って来たんだからよしとするか。流山君は元気?」
「流山?あいつならピンピンしてるよ。あいつ剣道やってるからな。休みなのに今日も学校に行ってるんじゃないか?」
「そうかもね」
「あれ、流山が剣道やってるって言ったっけ?」
「ううん、夏休みに加佐未北中で剣道の試合をやってるのを見たの」
「ふうん、それはまた偶然だね」
勇也はそれを偶然だと思った。勇也には由美子の気持ちは全然理解出来ていないらしい。
「まあ、いいけどね」
由美子はぼそっと呟いた。
どうやら由美子は帰宅途中らしかった。
よく考えてみれば、I女学院は今中駅の近くにあるのだ。他にも女生徒が歩いていた。
「そういえば神代さんは元気?」
「えっ、まだ会ってないの?」
勇也は顔を背ける。
「ああ、ちょっと色々とあって……」
「こうちゃん、今落ち込んでるんだよ」
「えっ、どうして!」
勇也は自分が電話を無理矢理切ってしまったせいではないかと思った。
「どうしてって、あれ?西山君が行方不明なの知らないの?」
それを訊いた途端、勇也の顔色が変わった。


勇也は由美子から純のことを訊いた。
「そんな、あの西山先輩がそんなことをするなんて信じられないよ」
「私だってそうよ。でも実際に西山君は家に戻ってないわ。だからこうちゃん、ひどく落ち込んじゃってるんだ」
「そうか……」
勇也は、唯が電話中何か落ち込んでいたように感じたのはこの為だったんだと納得した。
「でも連絡はあるんだろ?」
「そう、時々西山君の家に電話があるんだって。『わては元気や、心配せんでええ』と」
「ったく……西山先輩は何考えてんだよ!」
「それは木下君にも言えるわよ」
「えっ!」
「なんでもっと早くこうちゃんの相談に乗ってやんないのよ!こうちゃんは今、支えを必要としてるのよ。例えあなたでもまだ役に立つんだから」
「あなたでもって……何か酷い言い方だな」
「そう聞こえたならごめんね。でもまだあなたの方が私より相談相手になるかなっと思って」
「俺の方が?」
「そう、こうちゃんの奴あなたのことかなり信用しているみたいだしね。私、何度も励ましてるのよ。でもこうちゃん、次の日になったらまた死人のようになって出てくるのよ……」
「…………」

勇也は絶句してしまった。
唯がここまで純のことを思っていることがわかったからだ。
そして同時になぜかほっとしている自分がいた。
返事を訊かずして答えを知れたからだ。
これでつき合うことを断って唯を悲しませることがなくなった。
今は唯以上にあの本屋の子のことが気になっていた。
ずっと唯のことだけを考えていたはずなのに。
勇也の一度気に入ったことにはとことん一直線の性格の為だろう。
もしこんな気持ちのまま、唯につき合って下さいなどと言われたら本当に困る所だった。
やはりずるい人間なのだ。
ただ、これ以上誰にも嫌われたくなかった。

「わかったよ、今度神代さんに会ってみるよ」
「ありがと、それじゃまたね」
そう言うと由美子はスタスタと歩いて行ってしまった。
やはり由美子にはあまり好かれていない気がした。
それよりも純のことが気になった。
「あの西山先輩が失踪……一体何があったんだ?」
勇也は暫く考え込んでしまった。



勇也が氷上町のあの本屋に着いたのは4時過ぎだった。
「俺って一体何やってんだろ?」
ふとそう考えてしまう。
あの子に会う為にわざわざ1時間もかけてこの本屋に来たのだ。会えるかどうかもわからないのに……
こんなことをしている自分を嘲りながら本屋の中へと入って行った。
店内をぐるりと見回したが彼女の姿はなかった。
3周はしてしまったかもしれない。
他の店員に訊けばよかったのかもしれないが、勇也にはそんな勇気はなかった。
「ここのバイトやめちゃったのかな……」
不安が募る。
勇也は諦めきれずに、本屋の前で待つことにした。
何分待っただろうか、彼女は来なかった。
「…………」
空を仰ぐと、太陽が沈みそうになっていた。



勇也は夢を見ていた。
またいつものあの夢の少女が出て来た。
勇也はそのやさしく、穏やかで、心を和ませてくれる少女と向かい合っていた。
『君は一体誰なんだ?』
しかし、その少女は何も答えない。
『お願いだ、君の顔をもっとよく見せてくれ。目が覚めても覚えている位に……』
だが、彼女は少しずつ遠ざかって行く。
『待って、待ってくれ!!』
勇也は必死に叫ぶ。
すると、初めてその少女がしゃべった。
『もうすぐ会えるよ』



「はっ!」
勇也は目を覚ました。
「またいつもの夢か――――ってうわっ!!」
ゴン!
勇也は驚いて本屋の壁に頭を打った。
「だ、大丈夫?」
勇也ははっとして目の前を見た。
そう、あの本屋の子である。
目を開けた瞬間、彼女の顔が目の前にあったから驚いたのだ。
それによく見ると、まだ太陽は沈んでいなかった。
彼女が制服姿であるのがはっきりとわかった。
2,30分程しか眠っていなかったのだろう。
「俺、こんな所で眠っちゃったんだな。よっぽど疲れているのかな?」
すると、彼女は何かを取り出した。
「はい、これ」
「えっ、これは……」
勇也は受け取って中を見た。
それは『アルファ』だった。
勇也は驚いて彼女を見上げる。
「あのね、あの次の日にすぐ取りに行ったんだ。それであなたが来るのを毎日待っていたんだよ」
「…………」
「でも今日はごめんね。学校に用事があってなかなか帰れなかったんだ」
「…………」
勇也は言葉が出なかった。
彼女がただ単に責任感が強いからなのかもしれないが、ここまでしてくれた子は初めてだ。
「どうしたの?そんなに見つめられたら恥ずかしいよ」
「いや、君が可愛いと思ったから……」
勇也は知らぬ間にそんな言葉を発していた。
俺何を言ってんだよ!
「ありがとう」
「えっ!」
彼女は素直に喜んでくれたらしい。
その瞳はとても澄んでいた。
勇也はこの瞳を誰にも渡したくないと思った。
「あ、あの……」
「そうだ、ねえどっかで話そうよ。ここだとちょっと目立つし」
「え、わ、わかった」
勇也は先に誘われてしまった。つくづく自分の対話の苦手さを実感した。


彼女は、勇也をあの営業廃止になったゲーセンに案内してくれた。
「あのね、ここは私がバイトの休憩時によく来る所なんだ」
と言っても、板張りの天井には蜘蛛の巣が張っているわ、床は腐って穴が開いてるわでひどいものだった。
勇也が辺りを見回していると、彼女に呼ばれた。
「こっちよ」
「えっ」
彼女は『控え室』と書かれたドアの前に立っていた。
その中に入ると、さっきまでとは随分雰囲気が違った。
妙にこの中だけきれいになっている。
おそらく彼女がいつも使っているからだろう。
この部屋は入り口から見れば死界になっている。
誰も無断で使っているとは気付かないだろう。
勇也は彼女と向かい合って座った。
この部屋には長いソファが2つ向かい合って置いてあったのだ。
勇也はなんとも恥ずかしかった。
向かい合うだけでここまでドキドキしたのは初めてだ。この子と居ると何かいつもと違う自分がいるような気がした。
勇也がモジモジしていると、彼女が話し始めた。
「ねえ」
「えっ!」
「あなたって本当に面白い人だね。ほんと何というか変わっているというか……」
「君だってなんか今時の子と違うと言うか何と言うか……」
「そうか!」
「どうしたの?」
「私達2人とも変わってるんだよ。だから気が合うんだ」
「気が合う……」
勇也は嬉しかった。
少なくとも彼女に好かれているとわかったからだ。
しかしそれはどこまでの意味を持つのか。
単に話し易い、それとも……
その後も彼女は色々なことを話してくれた。
ちょっと変わっているなという気はしたが、彼女と話していると本当に楽しいのだ。
唯と話していた時は主に『RAIZA』や純のことばかりであり、仲間意識を持って話していた気がする。
しかし、彼女は学校であった面白いこととかバイト中の失敗談などを話してくれた。
それは勇也の知らないことばかりで本当に訊き甲斐があるのだ。
その間、ずっと心臓がドキドキしていた。
彼女と話していると時間の感覚がなくなって行く感じがした。
まるで別の世界に入り込んだようだった。


しかし、時間とは確実に過ぎて行くものだ。
窓の外を見るとすっかり暗くなっていた。
そろそろ7時を回ったのだろう。
「あれ、もうこんな時間なんだね。ほんと時間が経つのって早いね」
まったく同感である。
2人は立ち上がった。
彼女をよく見ると、唯よりも5センチほど背が小さいようだ。
とってもちっちゃく見える。
そして彼女のトレードマークとしてポニーテールが光っていた。
唯とは随分雰囲気が違う気がした。
彼女はその髪をなびかせて部屋を出ようとする。
「あ、あの……」
「え、どうしたの?」
「えーと、あの、その……」
「?……そうか、私達まだ自己紹介もしてなかったんだよね。私は美雪、広田美雪だよ!あなたは?」
「き、木下勇也……」
なんかメチャメチャ緊張していた。
「勇也ちゃん?んーと、じゃあゆーちゃんだね。それじゃゆーちゃん、今日は本当に楽しかったよ。またね!」
「あ……」
美雪はそう言うとそのまま走って行ってしまった。

「広田美雪……ちゃん……」
その晩は彼女のことが頭から離れなかった。


続く