5.すれ違い10

10

純は、飛び起きると慌てて時計を―――と思ったら、いつもの目覚まし時計がなかった。
「そうか、ここはわてに家やなかったんや」
純は腕時計を見る。
時計の針は12時を指していた。
「あ、あかん。なんで起きられへんのやろ?」
3日連続で寝坊である。もう手がつけられない。
とは言え、唯の所へ行って一秒でも早く謝りたいという気持ちは変わらない。
しかし、体が言うことを聞いてくれないようだ。
昨日の傷が痛む。

「うう……そういや瀬口さ―――」
その瞬間、純は動きを取れなくなってしまった。
純の横に裕子が寝ていたのだ。
純はどうしていいか分からなくなった。
「あ、あの、瀬口さん……」
しかし、裕子は起きようとしない。
ぐっすりと眠っているようだ。
純は焦った。
な、なんでこの子がわての隣に寝とるんや!確かに下で寝るって……
純は体を乗り出して床を見た。
一応、裕子が寝ていたらしい布団があった。
「どうしてこの子……寝ぼけたんか?」
純は裕子を起こさないように、ゆっくりゆっくりと起きあがろうとした。
ガシッ!
「へっ!」
裕子は寝ぼけているのか、純にしがみついた。
純が更に焦ったのは言うまでもない。
「まったく、この子はなんなんや……」
「ママ、パパ……どうして……」
「えっ!!」
裕子は涙を流していた。
「瀬口さん……」
純はこの時、裕子には何かあると思った。
純は裕子をベットに寝かせると起き上がった。
体中がまだ痛むが、歩くのには支障はなさそうだ。
部屋を見回すと、改めて狭い部屋だと思った。
壁もかなりボロが入っている。
かなり古いアパートのようだ。
「こんな所で一人暮らししとるなんて、この子は一体……」
純は、裕子に対して更に疑問を抱いた。
「あれ?」
よく見ると、まだ十分に冷たいタオルが落ちていた。
どうも一晩中怪我の手当をしてくれていたらしい。
純は眠っている裕子にそっと礼を言った。
「わての為に一睡もせんと看病してくれるなんて……こんな見ず知らずのわてを……でも、もう帰るわ。どうしても謝らなあかん奴がおるんや。それじゃ……」
そう言うと、純は裕子のアパートを出て行った。
純はすぐにでも唯の家に駆け込みたかったが、思った以上に体の痛みがひどいようだ。
なかなかうまく歩けない。まして、走ることなんて出来るはずもなかった。
「あ、あかんな……昨日たっぷり眠って体力を回復させたはずなのに……」
その痛みは歩けば歩く程増して来た。
「水泳をやめたのがたたったんやな、きっと……」
そう言って自分を励ましていたが、次第に意識が朦朧としてきた。
「ゆ、唯……」

ドサッ。



唯は昼過ぎに、純の家へ押し掛けた。
テニスの部活が終わってから来たのだ。
「まったく、昨日部活をさぼったせいで先輩にたっぷりしごかれちゃったよ。もう絶対、あの馬鹿に一言言わなきゃ気が済まない!」
ピンポーン。
すると、インターホンから声がした。
「どちら様ですか?」
「おばさん、こんにちは。神代です」
暫くすると、ドアが開いた。
「純!昨日は一体―――あ」
唯は顔を赤くした。
出てきたのは、純ではなくて、純の母親だった。
「す、すみません。てっきり、純だと……」
「いいのよ。それより、純がお邪魔してない?」
「えっ、いないんですか?」
「そうなのよ。昨日帰って来なかったの」
「帰って来なかった……」
何か嫌な予感がする。
「まあ、あの子のことだから、友達の家にでも泊まったんだと思うんだけど……あ、唯ちゃん、もしあの子に会ったら、一度電話するように言ってくれる?」
「はい、わかりました」
「それじゃ、また今度遊びに来てね、唯ちゃん」
そう言うと、純の母親は家の中に入っていってしまった。

唯はその場に立ち尽くす。そして、次第に不安と怒りが同時にこみ上げて来た。
「あの馬鹿、私とのデートすっぽかしてどこに行っちゃったのよ!!もー!!!」
唯は自分の家に戻ろうとする。
「……でも、何か嫌な予感がする。どうしてだろ?」
色々考えを巡らす。
「もしかして昨日駅に向かう途中、何か事件にでも巻き込まれたのかも……」
そう考えたら、不安が100倍になってしまった。
心臓がいつになくドキドキしている。
「ああ、悩んでいても仕方ないか。とにかく純の奴をとっつかまえてすべてを吐かせればいいんだわ。
よし、純の奴を捜しに行こう」
そう言うと、唯は家に駆け戻った。



「純ちゃん、純ちゃん、しっかりして!純ちゃん!」
「う、うう……」
純が目を覚ますと、誰かが涙をこぼしている。
「ゆ、ゆ……い……か……?」
「純ちゃん、気が付いたのね!」
その子は純を抱きしめる。
「ゆ……い……どうしてここに……?」
「純ちゃん、私、ゆいなんて名前じゃないよ」
「えっ……」
純がゆっくり顔を上げると、それは裕子だった。
「なんだ、瀬口さんやないか……」
「なんだじゃないよ」
裕子は涙を純の顔に落とす。
「な、なにもこれくらいで……」
「だって、とっても心配したのよ。目を覚ましたら、純ちゃんどこにもいないんだもの。まだ体もよくなってないのに帰るなんて無茶よ!」
裕子は純に抱きつく。
「ちょ、ちょっとこんな所で抱きつかんといてや。は、恥ずかしいやろ」

よく見ると、そこは公園の中であった。
おそらく、裕子が倒れていた純をここまで運んで来たのだろう。
「そ、それより、なんで『純ちゃん』になっとるんや?君とはそんなに……」
「いいの。お願い、こう呼ばせて。それに、私のことは裕子って呼んでいいから」
「いいからって……君は一体どういうつもりなんや?普通、もう少し……」
「見ず知らずじゃないよ。私は、私は純ちゃんが好きなの」
「えっ!」
そう言うと、裕子は突然キスをした。
純は驚きのあまり動けない。
この子、いきなり何を……わてが好きって……

はっ!
その時、純は凍り付いた。
視界に唯の姿が映ったのだ。

「あ、純、こんな所に―――――」
唯はその場に立ち尽くした。
純は、慌てて裕子を引き離す。
「ゆ、唯、これには深ーい訳が……」
「な、何やってるのよ、こんな所で……」
唯の拳が震えている。その声は今にも消え入りそうだった。
「ゆ、唯、わては瀬口さんとは何の関係も……」
「ふうん、あんたが唯って子?」
「せ、瀬口さん?」
純が弁解しようとすると、裕子が割って入って来た。
「あ、あなたは……」
すると、裕子は激しい口調で唯に話しかける。
「あんた純ちゃんの何なのよ!」
「純ちゃん?」
裕子は純に抱きつく。
「あっ!」
「あのね、あんたが何だか知らないけど、純ちゃんは私のモノよ!!あんた、どっか行ってよ!!!」
「せ、瀬口さん、何を!」
その言葉は唯の心に深く刺さった。
純がこの子のモノ……
純がこの子のモノ……
この子の……
「じゅんの、ばかああああ!!!!!!」
唯はその場を走り去る。
「唯っ!!」
その場には、純の声だけが響きわたった。



純は裕子に怒りをぶつけていた。
「瀬口さん、なんであんなこと言ったんや!」
二人は再び裕子のアパートに戻って来ていた。
と言うのは、唯を追いかけようとしていた純を、裕子が無理矢理引き留めたからだった。
「もう限界や!我慢ならん、どうしてわざと唯を怒らせるようなことを言ったんや!!」
「だから言ってるじゃない、私、あなたが好きなの」
「って……まだ会って2日やぞ。なんでそんなことが言えるんや!!」
「私、本気だよ。昨日純ちゃんが助けてくれた時に、この人しかいないって思ったの。こんなにやさしくしてくれたのは純ちゃんが初めてだもの」
「な……」
「純ちゃんは普通の男とは違う、私の体が目当てじゃない人なんていなかった。いつもいつも……私に近づいて来る奴は、みんな私じゃなく、わたしの体が欲しかっただけなのよ!!」
純はそれを聞いて混乱する。
「な、何を言っているんや……」
「私、風俗店で働いているの。だから、この辺の奴らはみんな……」
「!!」
純は裕子の肩をつかむ。
「お前、何やっとるんや!!まだ高校生やろ!!」
「そんなの関係ないじゃない、私は……」
ビシッ!!
純の平手打ちが裕子の頬にヒットした。
裕子は頬を押さえながら、顔を背ける。
「こんなこと……私だってしたくないよ」
「えっ……」
裕子は純の胸に飛びつく。
「ゆ、裕子……」
「お願い、暫くこのままでいさせて……」
「―――わかった」
裕子は泣いているようだった。
少しすると落ち着いたのだろうか、裕子はゆっくりと顔を上げた。
「純ちゃん……」
「なあ、よかったらわてに話してくれんか?」
「……うん」
裕子はゆっくりとうなずいた。
裕子はうつむきながら話し始めた。
「私、ずっと一人だった。ずっと……」
「ずっと……?」
「そう、私ね、幼い時にパパとママに捨てられたの」
「そんな。」
その途端、今朝の裕子の寝言が脳裏をよぎった。
『ママ、パパ……どうして……』
「幼かった私は、親戚の家をたらい回しにされたわ。みんな、自分の子供がいるんですもの。私みたいな捨て子にやさしくしてくれる人なんて、誰もいなかった。だから15の時、親戚の家を飛び出したの。あんな生活するより、一人で暮らした方が絶対にいいと思った。でも……」
「金がなかったんか……」
「うん……高校生じゃバイトもできないし、例え出来るものでも、親の承諾が必要なものばかりだった。だから、生きていくためには、風俗をやるしかなかった」
「裕子……」
「こんな仕事、表の仕事じゃないものね……歳なんて聞かれなかったわ」
「ん、待てや。じゃあ15の時からそんなことしとったって言うんかい!!」
裕子は黙って頷いた。
「じゃあ、学校は?学校にはちゃんと行ってるんか?」
「そんなの無理に決まってるじゃない。生きていく
だけで精一杯なのに―――」
純は、それを聞いて泣きそうになった。
「世間の目はいつも冷たくて、私、ずっと一人で寂しかった……怖かった……でも、純ちゃんはこんな私を助けてくれた。自分の体を張ってまでして。……このまま帰って欲しくない!ずっと側に居て欲しいの!!」
「だから、唯の奴を追い払ったって言うんか」
「そうよ!純ちゃんはあの子が好きなんでしょ?そんなことはすぐわかったわ。寝言で言っている位だものね」
「それじゃ、なぜ」
裕子は涙をこぼす。
「純ちゃんを離したくないの、誰にも渡したくないのよ!!!」

それを聞くと純は立ち上がった。
「純ちゃん?」
「すまんが、わてはこれで帰らせてもらう」
途端に裕子の顔色が変わる。
「どうして、どうしてよ!!」
「裕子、確かにお前は可哀想な奴や。だがな、お前は自分のことしか考えておらへん。お前は、わての一番大切なものを奪ってもうたんやで」
「純ちゃんの大切なもの?」
「唯や」
「…………」
「お前にはわからんやろうな、この気持ちが」
純はゆっくりと歩き出した。
すると、裕子は服を脱ぎ始めた。
純の視界に、豊満な肢体が飛び込んで来る。
「な、何する気や!!」
純は動揺する。裕子は下着を脱ぎながら話す。
「私を純ちゃんにあげる。だから行かないで」
裕子は涙を溜めている。
「ど、どうして……そこまでしてわてを……?」
純は裕子を見つめた。裕子も純を見る。
この子はわてを必要としとる。
寂しさをわてで埋めようとしとるんや。
ぬくもりを求めている……
頼りにしてくれている……
この子が、瀬口裕子がわてに……
裕子は純に抱きついた。
「お願い、私を一人にしないで」
裕子の声が純の頭に響く。
―――幼い頃からずっと独りだった孤独感。
そんなつらさに、ずっと耐えて来たんだろう。
自分の体を削ってまでして……
裕子……
純は裕子を強く、強く抱きしめた。



唯はベットの上で泣いていた。
「木下君が好きなはずなのに、どうして純のことでこんなに心が痛むの?」
唯はウサギのぬいぐるみを抱きしめた。
「ララちゃん、あの馬鹿が裕子とか言う子とキスしてたの。そして、あの子は純ちゃんは私のモノだって……」
ぬいぐるみに涙がこぼれる。
「おかしくなっちゃったのは私の方だ、純のことがこんなに気になってるよ。もしかして私……」
純……

そして、純は二度と家には戻らなかった。

続く