5.すれ違い
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- 純は、飛び起きると慌てて時計を―――と思ったら、いつもの目覚まし時計がなかった。
「そうか、ここはわてに家やなかったんや」
純は腕時計を見る。
時計の針は12時を指していた。
「あ、あかん。なんで起きられへんのやろ?」
3日連続で寝坊である。もう手がつけられない。
とは言え、唯の所へ行って一秒でも早く謝りたいという気持ちは変わらない。
しかし、体が言うことを聞いてくれないようだ。
昨日の傷が痛む。
「うう……そういや瀬口さ―――」
その瞬間、純は動きを取れなくなってしまった。
純の横に裕子が寝ていたのだ。
純はどうしていいか分からなくなった。
「あ、あの、瀬口さん……」
しかし、裕子は起きようとしない。
ぐっすりと眠っているようだ。
純は焦った。
な、なんでこの子がわての隣に寝とるんや!確かに下で寝るって……
純は体を乗り出して床を見た。
一応、裕子が寝ていたらしい布団があった。
「どうしてこの子……寝ぼけたんか?」
純は裕子を起こさないように、ゆっくりゆっくりと起きあがろうとした。
ガシッ!
「へっ!」
裕子は寝ぼけているのか、純にしがみついた。
純が更に焦ったのは言うまでもない。
「まったく、この子はなんなんや……」
「ママ、パパ……どうして……」
「えっ!!」
裕子は涙を流していた。
「瀬口さん……」
純はこの時、裕子には何かあると思った。
- 純は裕子をベットに寝かせると起き上がった。
体中がまだ痛むが、歩くのには支障はなさそうだ。
部屋を見回すと、改めて狭い部屋だと思った。
壁もかなりボロが入っている。
かなり古いアパートのようだ。
「こんな所で一人暮らししとるなんて、この子は一体……」
純は、裕子に対して更に疑問を抱いた。
「あれ?」
よく見ると、まだ十分に冷たいタオルが落ちていた。
どうも一晩中怪我の手当をしてくれていたらしい。
純は眠っている裕子にそっと礼を言った。
「わての為に一睡もせんと看病してくれるなんて……こんな見ず知らずのわてを……でも、もう帰るわ。どうしても謝らなあかん奴がおるんや。それじゃ……」
そう言うと、純は裕子のアパートを出て行った。
- 純はすぐにでも唯の家に駆け込みたかったが、思った以上に体の痛みがひどいようだ。
なかなかうまく歩けない。まして、走ることなんて出来るはずもなかった。
「あ、あかんな……昨日たっぷり眠って体力を回復させたはずなのに……」
その痛みは歩けば歩く程増して来た。
「水泳をやめたのがたたったんやな、きっと……」
そう言って自分を励ましていたが、次第に意識が朦朧としてきた。
「ゆ、唯……」
ドサッ。
- 唯は昼過ぎに、純の家へ押し掛けた。
テニスの部活が終わってから来たのだ。
「まったく、昨日部活をさぼったせいで先輩にたっぷりしごかれちゃったよ。もう絶対、あの馬鹿に一言言わなきゃ気が済まない!」
ピンポーン。
すると、インターホンから声がした。
「どちら様ですか?」
「おばさん、こんにちは。神代です」
暫くすると、ドアが開いた。
「純!昨日は一体―――あ」
唯は顔を赤くした。
出てきたのは、純ではなくて、純の母親だった。
「す、すみません。てっきり、純だと……」
「いいのよ。それより、純がお邪魔してない?」
「えっ、いないんですか?」
「そうなのよ。昨日帰って来なかったの」
「帰って来なかった……」
何か嫌な予感がする。
「まあ、あの子のことだから、友達の家にでも泊まったんだと思うんだけど……あ、唯ちゃん、もしあの子に会ったら、一度電話するように言ってくれる?」
「はい、わかりました」
「それじゃ、また今度遊びに来てね、唯ちゃん」
そう言うと、純の母親は家の中に入っていってしまった。
唯はその場に立ち尽くす。そして、次第に不安と怒りが同時にこみ上げて来た。
「あの馬鹿、私とのデートすっぽかしてどこに行っちゃったのよ!!もー!!!」
唯は自分の家に戻ろうとする。
「……でも、何か嫌な予感がする。どうしてだろ?」
色々考えを巡らす。
「もしかして昨日駅に向かう途中、何か事件にでも巻き込まれたのかも……」
そう考えたら、不安が100倍になってしまった。
心臓がいつになくドキドキしている。
「ああ、悩んでいても仕方ないか。とにかく純の奴をとっつかまえてすべてを吐かせればいいんだわ。
よし、純の奴を捜しに行こう」
そう言うと、唯は家に駆け戻った。
- 「純ちゃん、純ちゃん、しっかりして!純ちゃん!」
「う、うう……」
純が目を覚ますと、誰かが涙をこぼしている。
「ゆ、ゆ……い……か……?」
「純ちゃん、気が付いたのね!」
その子は純を抱きしめる。
「ゆ……い……どうしてここに……?」
「純ちゃん、私、ゆいなんて名前じゃないよ」
「えっ……」
純がゆっくり顔を上げると、それは裕子だった。
「なんだ、瀬口さんやないか……」
「なんだじゃないよ」
裕子は涙を純の顔に落とす。
「な、なにもこれくらいで……」
「だって、とっても心配したのよ。目を覚ましたら、純ちゃんどこにもいないんだもの。まだ体もよくなってないのに帰るなんて無茶よ!」
裕子は純に抱きつく。
「ちょ、ちょっとこんな所で抱きつかんといてや。は、恥ずかしいやろ」
よく見ると、そこは公園の中であった。
おそらく、裕子が倒れていた純をここまで運んで来たのだろう。
「そ、それより、なんで『純ちゃん』になっとるんや?君とはそんなに……」
「いいの。お願い、こう呼ばせて。それに、私のことは裕子って呼んでいいから」
「いいからって……君は一体どういうつもりなんや?普通、もう少し……」
「見ず知らずじゃないよ。私は、私は純ちゃんが好きなの」
「えっ!」
そう言うと、裕子は突然キスをした。
純は驚きのあまり動けない。
この子、いきなり何を……わてが好きって……
はっ!
その時、純は凍り付いた。
視界に唯の姿が映ったのだ。
「あ、純、こんな所に―――――」
唯はその場に立ち尽くした。
純は、慌てて裕子を引き離す。
「ゆ、唯、これには深ーい訳が……」
「な、何やってるのよ、こんな所で……」
唯の拳が震えている。その声は今にも消え入りそうだった。
「ゆ、唯、わては瀬口さんとは何の関係も……」
「ふうん、あんたが唯って子?」
「せ、瀬口さん?」
純が弁解しようとすると、裕子が割って入って来た。
「あ、あなたは……」
すると、裕子は激しい口調で唯に話しかける。
「あんた純ちゃんの何なのよ!」
「純ちゃん?」
裕子は純に抱きつく。
「あっ!」
「あのね、あんたが何だか知らないけど、純ちゃんは私のモノよ!!あんた、どっか行ってよ!!!」
「せ、瀬口さん、何を!」
その言葉は唯の心に深く刺さった。
純がこの子のモノ……
純がこの子のモノ……
この子の……
「じゅんの、ばかああああ!!!!!!」
唯はその場を走り去る。
「唯っ!!」
その場には、純の声だけが響きわたった。
- 純は裕子に怒りをぶつけていた。
「瀬口さん、なんであんなこと言ったんや!」
二人は再び裕子のアパートに戻って来ていた。
と言うのは、唯を追いかけようとしていた純を、裕子が無理矢理引き留めたからだった。
「もう限界や!我慢ならん、どうしてわざと唯を怒らせるようなことを言ったんや!!」
「だから言ってるじゃない、私、あなたが好きなの」
「って……まだ会って2日やぞ。なんでそんなことが言えるんや!!」
「私、本気だよ。昨日純ちゃんが助けてくれた時に、この人しかいないって思ったの。こんなにやさしくしてくれたのは純ちゃんが初めてだもの」
「な……」
「純ちゃんは普通の男とは違う、私の体が目当てじゃない人なんていなかった。いつもいつも……私に近づいて来る奴は、みんな私じゃなく、わたしの体が欲しかっただけなのよ!!」
純はそれを聞いて混乱する。
「な、何を言っているんや……」
「私、風俗店で働いているの。だから、この辺の奴らはみんな……」
「!!」
純は裕子の肩をつかむ。
「お前、何やっとるんや!!まだ高校生やろ!!」
「そんなの関係ないじゃない、私は……」
ビシッ!!
純の平手打ちが裕子の頬にヒットした。
裕子は頬を押さえながら、顔を背ける。
「こんなこと……私だってしたくないよ」
「えっ……」
裕子は純の胸に飛びつく。
「ゆ、裕子……」
「お願い、暫くこのままでいさせて……」
「―――わかった」
裕子は泣いているようだった。
少しすると落ち着いたのだろうか、裕子はゆっくりと顔を上げた。
「純ちゃん……」
「なあ、よかったらわてに話してくれんか?」
「……うん」
裕子はゆっくりとうなずいた。
- 裕子はうつむきながら話し始めた。
「私、ずっと一人だった。ずっと……」
「ずっと……?」
「そう、私ね、幼い時にパパとママに捨てられたの」
「そんな。」
その途端、今朝の裕子の寝言が脳裏をよぎった。
『ママ、パパ……どうして……』
「幼かった私は、親戚の家をたらい回しにされたわ。みんな、自分の子供がいるんですもの。私みたいな捨て子にやさしくしてくれる人なんて、誰もいなかった。だから15の時、親戚の家を飛び出したの。あんな生活するより、一人で暮らした方が絶対にいいと思った。でも……」
「金がなかったんか……」
「うん……高校生じゃバイトもできないし、例え出来るものでも、親の承諾が必要なものばかりだった。だから、生きていくためには、風俗をやるしかなかった」
「裕子……」
「こんな仕事、表の仕事じゃないものね……歳なんて聞かれなかったわ」
「ん、待てや。じゃあ15の時からそんなことしとったって言うんかい!!」
裕子は黙って頷いた。
「じゃあ、学校は?学校にはちゃんと行ってるんか?」
「そんなの無理に決まってるじゃない。生きていく
だけで精一杯なのに―――」
純は、それを聞いて泣きそうになった。
「世間の目はいつも冷たくて、私、ずっと一人で寂しかった……怖かった……でも、純ちゃんはこんな私を助けてくれた。自分の体を張ってまでして。……このまま帰って欲しくない!ずっと側に居て欲しいの!!」
「だから、唯の奴を追い払ったって言うんか」
「そうよ!純ちゃんはあの子が好きなんでしょ?そんなことはすぐわかったわ。寝言で言っている位だものね」
「それじゃ、なぜ」
裕子は涙をこぼす。
「純ちゃんを離したくないの、誰にも渡したくないのよ!!!」
それを聞くと純は立ち上がった。
「純ちゃん?」
「すまんが、わてはこれで帰らせてもらう」
途端に裕子の顔色が変わる。
「どうして、どうしてよ!!」
「裕子、確かにお前は可哀想な奴や。だがな、お前は自分のことしか考えておらへん。お前は、わての一番大切なものを奪ってもうたんやで」
「純ちゃんの大切なもの?」
「唯や」
「…………」
「お前にはわからんやろうな、この気持ちが」
純はゆっくりと歩き出した。
すると、裕子は服を脱ぎ始めた。
純の視界に、豊満な肢体が飛び込んで来る。
「な、何する気や!!」
純は動揺する。裕子は下着を脱ぎながら話す。
「私を純ちゃんにあげる。だから行かないで」
裕子は涙を溜めている。
「ど、どうして……そこまでしてわてを……?」
純は裕子を見つめた。裕子も純を見る。
この子はわてを必要としとる。
寂しさをわてで埋めようとしとるんや。
ぬくもりを求めている……
頼りにしてくれている……
この子が、瀬口裕子がわてに……
裕子は純に抱きついた。
「お願い、私を一人にしないで」
裕子の声が純の頭に響く。
―――幼い頃からずっと独りだった孤独感。
そんなつらさに、ずっと耐えて来たんだろう。
自分の体を削ってまでして……
裕子……
純は裕子を強く、強く抱きしめた。
- 唯はベットの上で泣いていた。
「木下君が好きなはずなのに、どうして純のことでこんなに心が痛むの?」
唯はウサギのぬいぐるみを抱きしめた。
「ララちゃん、あの馬鹿が裕子とか言う子とキスしてたの。そして、あの子は純ちゃんは私のモノだって……」
ぬいぐるみに涙がこぼれる。
「おかしくなっちゃったのは私の方だ、純のことがこんなに気になってるよ。もしかして私……」
純……
- そして、純は二度と家には戻らなかった。
続く