12.絶望23/24/25

23

次の日、漸く雨が弱まって来た。
恐らく昨日がピークだったのだろう。
今回の台風は本当に異例だった。
10月中旬に来た時点で異例だったが、更に進行速度が極めて遅かったのだ。
こんなことは何十年ぶりとかでニュースにも取り上げられていた。



勇也は抜け殻のようになっていた。
授業中、ずっと止まっていた。
決して眠っていた訳ではない。
勇也は自我を失っていたのだ。
もうあらゆることがどうでもよく感じられていた。
勇也は美雪のことを本当に大切に思っていた。
支えにしていた。
最初は美雪を支えてやりたい、そう思ってつき合い始めたのだが、いつの間にか自分の方が彼女を支えにしていたのだ。
もう美雪なしの生活など考えられなかった。
だが昨日、美雪は勇也に怒りをぶつけ、勇也を拒絶した。
それは美雪の勘違いが原因だったが、そんなことは勇也には関係なかった。
美雪に拒絶されたこと―――
そのことが深く心に突き刺さっていたのだ。
彼は自分の存在理由を失った気がした。


1限目の休み時間になると、流山がB組にやって来た。
「おい、木下!」
「…………」
「木下!」
「…………」
「おいっ、木下あああ!!!」
「………………ん?」
勇也はゆっくりと流山の方を見た。
「……何だよ、そんな大声出して……」
「何言ってんだ!お前が無視するからだろ!!」
「………………で?」
「お前なあ……まあいい。それより昨日はどうしたんだ。一体何処に行っていたんだよ?心配したんだぞ」
「昨日…………」
その言葉を訊いた途端、勇也は我を忘れた。
突然流山の胸ぐらを掴む。
「貴様、昨日の話はするな!!!」
流山はたじろいだ。
クラスの連中も驚いてシンとなった。
今まで人に手を出したことのない勇也がこんなことをしたのだ。無理はない。
勇也の目は常軌を逸していた。
流山はその目に恐怖を覚える。
「わ、わかったよ、お前にはもう何も訊かん。だから離してくれ……」
勇也は振り払うようにして手を離した。
流山は苦しそうに咳をした。
「……そう言えば、神代さんも行方不明になっていたんだぞ」
「知るか、んなもん!!」
「…………」
いつもの勇也なら、かなり心配しただろう。
しかし、今はそんなことはどうでもよかった。
勇也は流山を無視して教室を出た。
流山は慌てて勇也を追う。
「一体どうしたんだよ?何か変だぞ!」
流山は心配してそう言ってくれたのだが、今の勇也にとってはうざったいだけだった。
「ゴチャゴチャうるさい!!」
「木下……」
「俺は今月いっぱいで転校するんだ!だからもう構うな!!」
「おい、そんな話訊いてないぞ!おい、おいったら!!!」
流山が呼びかけるにも関わらず、勇也はそのまま走って行ってしまった。
流山は暫くその場に立ち尽くした。
「い、一体木下に何があったって言うんだ」
流山の表情が険しくなった。


勇也はチャリで走り回っていた。
どこを走っているのだろうか。
そんなことはどうでもよかった。
俺は、俺は一体何なんだ!!
何なんだよ!!!
俺は、どうしてこんな辛い気持ちを味わっているんだ。

美雪……
広田美雪……
やはり、彼女には俺のようなクズは相応しくなかったのかもしれない。
だから彼女に、美雪に嫌われたんだ。
そうだ。
そうなんだ。
彼女は何も悪くない。
すべて俺の責任だ。
俺が至らなかったせいだ。
………………
どうして俺みたいな奴がここに存在してるんだ。
美雪を傷つける為にここにいるのか。
自分のエゴを美雪にぶつけ、それで自分は満足だろう。しかし、それでいいのか!!!
他人を、美雪を傷つけてまですることなのか!!!
俺はどうしてここにいる―――――

「うわっ!!」
ドタン!!
勇也はタイミングを崩してチャリをひっくり返した。勇也の体はその場に叩きつけられた。
気が付くと、そこは公園の前だった。
勇也の家の近くの、夏に唯と来た公園だ。
勇也はゆっくりと体を起こすと、公園の中に入って行った。
すると、脳裏にあの時のことが甦った。
『俺はもう孤独じゃないんだ。今は流山達だけじゃなく、君という子に知り合えた。もう大丈夫だ。神代さん、君のおかげだよ。』
そのうちに勇也の目から涙が溢れて来た。
涙…………
こんなものはいつから流していなかっただろう。
勇也はこの地に来て以来、ずっと耐えて来た。
孤独に満ちた中学時代……
嫌なことはあったが、決してくじけなかった。
泣いたりしなかった。
泣くということは、あいつらに、無視している奴らに負けることだと思っていた。
だから決して泣かなかった。逃げたりしなかった。
独りで耐えてきた。

だが、今、勇也は涙を見せた。
学校から逃げ出した。
あの孤独な時代よりも辛いのだ。
美雪という1人の女性に拒絶されたことが。
これは小学時代にあの子に拒絶されたことも関係していたのかもしれない。
あれ以来、他人に拒絶されるのが怖かった。
その最も恐れていた事態が今訪れたのだ。
勇也はその場に倒れ込んだ。
じっと雲を眺めた。
台風が去った後であるせいか、とてもきれいな雲だった。久々に太陽を見た気がする。
「もう嫌だ……嫌だ…………」



終礼が終わると、唯は由美子を引っ張って飛び出した。
「ちょ、ちょっと、こうちゃん、そんなに慌てなくても……」
「何言ってるのよ!やっと目星が付いたんだよ。もしかしたら今日、純の奴に会えるかもしれないじゃない」
「そりゃそうだけど……」
「あ、クラブの方に休むって言っておかなきゃ!」
唯も多少余裕が出て来たようだ。
クラブのことを気にし出したのだ。
唯と由美子がテニス部の前に来ると、入り口の前に誰かが立っていた。
美雪である。
「あれ?セグチ……じゃなくて、えーと……」
「広田美雪です!!」
美雪の口調は重い。
「どうしたの広田さん?誰かを待ってるの?」
その言葉を訊くと、美雪はキッと睨んだ。
「神代先輩ってやっぱりそういう人なんですね。ゆーちゃんをたぶらかしておいて、そんなに悠々とした顔でいられるなんて……」
「えっ、何のこと?」
「とぼけないでください!いくら先輩とは言え、私にだって堪忍袋ってものがあるんですよ!!」
しかし、唯には何のことかさっぱり解らない。
「もう!木下、木下勇也ちゃんのことです!!」
「えっ、どうして勇也君のことを知っているの?」
「ゆ、勇也君て――――やっぱり知っているんじゃないですか!!それもゆーちゃんのことを『勇也君』だなんて馴れ馴れしく言ったりして!!あなたまで私を馬鹿にして、そんなに面白いんですか!!!」
唯は落ち着いて答える。
「広田さん、あなた何か勘違いしてるわよ」
「何言ってるんですか!!」
「確かに、私は勇也君に告白されたことがあるわ。もうあれから2ヶ月になるのか……」
唯はこの色々とあった2ヶ月を思い出す。
「2ヶ月前……」
美雪は勇也とまだ会ってから1ヶ月しか経っていないことに気付く。
「もしかしてゆーちゃん、私と知り合う前からあなたと……」
「違う、違うって……あ、広田さん!!!」
美雪は唯の話も訊かずにその場を走り去ってしまった。
美雪は更に勘違いしてしまったようだ。
しかし、本人はそんなこと知る由もない。
「なんだ、やっぱり私のことは遊びだったんだ……君が好きだ!そんな言葉に、私はまんまと引っかかったって訳ね。……私は、私はあなたのこと……」
美雪は泣いていた。
唯は美雪の様子を見ていてだいたいのことを理解した。
「そうか、勇也君、あの子とつき合ってんだ」
「そうなの?」
「由美子わかんなかった?何があったかは知らないけど、あの子の目は真剣だった。勇也君を誰よりも愛してる、そんな気持ちが伝わって来た。そして私に対する嫉妬の気持ちも……」
唯はこの前の勇也の行動の意味もすべて理解した。
「そっか……勇也君、あの子に心を奪われちゃったんだ」
唯は自分の心境の変化を勇也のものと重ねた。
「よし、由美子!早く純に会いに行こう!!私は純に会わなくちゃいけないんだ!!!」
由美子はそんな唯を見て笑みをこぼす。
「なんか元気になったね。こうちゃんにいつもの笑顔が戻った気がするよ」
2人は急いで加佐未にある『下町』へと向かった。
今日の唯は何かいつもと違っていた。
一見変わらないようだが、落ち着いて行動してるのだ。
由美子は唯と一緒に行動していてそれを感じ取った。
いつも唯は焦っていたのだ。
純の姿を見ることすら出来なかったから。
もしかしたら、もうどこか遠い場所に行ってしまったのではないかという不安さえあった。
それが酷く彼女を焦らせていたのだ。
しかし、一昨日、唯は確かに純に会ったのだ。自分には記憶は無いけれど。
あの気を失っていた時、何か幸せだった。
そして目を覚ました時、掛けられていた純の上着。
とても暖かかった。
単に暖かかったのではない。心が暖かくなったのだ。
唯は今日、その上着をきれいに洗濯して干してから来た。
まるでそれが自分のものであるかのように。
だから唯は吹っ切れたものがあったのかもしれない。
ただ闇雲に探し回るのではなく、確かにこの辺にいると確信を得たから。



「えっ!セグチって人を知ってるんですか!」
唯は顔を近づけて迫った。
「あ、ああ」
その男は唯の余りの驚きように少し焦ってしまった。
「で、どこに住んでいるか知っていますか?」
「知ってるも何も、瀬口裕子って子のことだろ?その子なら俺と同じアパートに住んでるよ」
その途端に唯の瞳が輝いた。
「お願いです!そのアパートまで案内してくれませんか!!」
「え、ええ、いいですよ。丁度俺も家に帰る途中だったし……」
「あ、ありがとうございます!」
唯は死にそうなくらいにお辞儀をした。
そして由美子と手を取り合って喜ぶ。
「やった、やった!やったね!!ついに純の奴に会えるんだ!!」
「うん、そうだね」
そんな唯の姿を見ていると、由美子まで嬉しくなって来た。
純が言うように、唯の笑顔は天下一品なのかもしれない。
「あの、ここからすぐ近くだから付いて来てくれ」
「はいっ!」
唯はまるで子供のような返事をした。


その男に付いて行くと、やはり『下町』に入った。
確かに由美子の予想は当たっていたようだ。
それにしても、この辺りの建物はかなり雰囲気が違っていた。
やはりここに来るのには気が引けた。
だが、裕子はこんな場所に住んでいると言うのだ。
信じられなかった。
唯は、裕子の普段の生活がかなり気になってしまった。
「あの、瀬口裕子ってどういう人なんですか?」
「えっ、知らないのかい?あの子は2年程前に今のアパートに越して来たんだ。初めは女が引っ越して来たと俺も喜んでいたが、そんな気持ちはすぐに吹っ飛んでしまったよ」
「どうしてですか?」
「あの女、目が死んでるんだよ」
「目が?」
「そう、何かまるで死人のようだった。あの当時あれで高1とか言っていたが、何かそんな雰囲気じゃないんだよな。なんというか……」
「…………」
「夜は風俗で働いているらしいんだ。まあ、女一人暮らしなんだからそれ位しないと苦しいのかもしれないね」
「そんな……」
唯はその事実を知って愕然とした。
「あ、でも、この2,3ヶ月かな、男を見つけたらしいよ。たまに俺も見かけるし……多分同棲してるんじゃないかな?」
唯は何も言えなかった。暫く黙りこくってしまった。
すると、男が立ち止まった。
「君達、ここがそのアパートだよ」
唯ははっとして前を見た。
本当にボロアパートである。
「それじゃ、俺はここで……」
「あ、どうもありがとうございました」
男は自分の部屋に入って行った。
唯と由美子がそのアパートの2階に上がると、『瀬口』という表札を見つけることが出来た。
「ここか……ついに来たんだね、由美子」
「ええ……」
唯はチャイムを押そうとしたが、その直前で止まってしまった。
「どうしたの、こうちゃん?」
よく見ると、唯の手が震えていた。
「あのね、心では解っていても、体が言うことを訊かないの……」
すると、由美子が一喝する。
「こうちゃん!そんなことでどうするの!!」
「だって……」
「いい、今ここで帰ったとしたら、また苦しまなきゃいけないのよ。それでもいいの?」
「また……」
唯はこの長くて辛い日々を思い出した。
ずっと、ずっと泣きながら暮らして来た。
心が張り裂けそうな位に寂しかった。
「……そうだ、そうだよね。私もう寂しい思いをしたくない」
「そう、その意気だよ。じゃあ、私は下で待っていることにするわ。頑張ってね、こうちゃん!」
そう言うと、由美子は階段を下りて行った。
唯は再び裕子の家のドアの前に立った。
「そうだ、逃げちゃ駄目なのよ。私はこのいチャイムを押すしかないんだ。ファイト!おー!!」
唯はついにチャイムを押した。
ピンポーン!
唯にはその音が死にそうな位に長く感じられた。
唯の体に緊張が走る!




24

勇也はじっと空を見つめていた。
一体どの位この状態で居るのだろう。
ゆっくりと流れて行く雲は時間の感覚を忘れさせてくれる。
今の勇也にとっては都合がよかった。
何か逃げ道を作りたかったのだ。
美雪のことを、引っ越しのことを暫く忘れたかった。
引っ越しまでの日数は刻一刻と迫っている。
それを考えると怖かった。
もちろん、美雪と離れたくなかった。
だが、勇也は怖い、怖いのだ。
美雪にもう一度会って誤解を解こういう勇気がないのだ。
勇也は意気地なしだ。
これ以上、拒否されることを恐れている。
しかし結果的にはその行動が更なる悲しみを招くことも解っていた。
でも勇気が出ない。
今直面している恐怖に勝てないのだ。
勇也はそんな自分を嘲笑った。

ある時、突然空が見えなくなった。
誰かが勇也を見ているらしい。
「すいませんが、退いてくれませんか?はっきり言って邪魔です」
すると、その人はニヤリとした。
「ほう、俺に楯突こうと言うのか、木下?」
勇也はその声を聞いてゆっくりと起き上がった。
「壇ノ浦……」
「先生をつけろ、先生を!!」
「…………」
勇也は黙って泥を払った。
「先生、どうしてこんな所に?」
「無断早退したお前を捜していたんだ。一体何してやがった!こんな所で!!!」
すると、勇也は空を見上げた。
「別に……ただ生きていることが馬鹿らしくなっただけですよ」
勇也の口振りは重い。
「……木下、あのベンチに座って話さないか?」
「あなたと話すことなんかありませんよ。……さよなら」
勇也は壇ノ浦を無視して歩いて行こうとした。
「お前、殴られたいのか!」
「別にいいですよ。殴るなら殴ってください」
「木下……」
「…………」
「お前、一体どうしたって言うんだ!今のお前は俺の見込んだ木下じゃない!!まるで死人だ!!」
勇也は振り返った。
「……あなたとも来週いっぱいでお別れですね。先生は嬉しいんじゃないですか?俺がいなくなるんだから……」
「ふざけるな!」
バキッ!
壇ノ浦は勇也を殴った。

勇也はゆっくりと口の血を拭う。
「立て、立つんだ、木下!」
「……全く困った先生ですね。すぐ手を出しやがる」
今日の勇也は間違いなく、いつもの勇也ではなかった。普段なら壇ノ浦を見ただけでオドオドしている勇也が、今は面と向かってタメ口を利いているのだ。
壇ノ浦もそんな勇也の様子に気付いていた。
「木下、いつものお前に戻れ!何をそんなに意地張ってるんだ!俺はお前のことを初めて見た時、磨けばどこまでも光ると感じた。お前の人に対する消極性さえ改善すればきっと将来成功すると。だから俺は無理矢理委員長にしてやったんだ。お前に積極性を持ってもらう為に。その為に俺は鬼にならなければならなかった。お前を変える為に。だからお前には特に厳しい教師であるようにした。お前は逆境を逆に利用出来る力を持っている。それを伸ばしてやりたかった。そんな俺の気持ちをお前は受け取ってくれてたじゃないか!しかし今のお前は……俺がお前がいなくなってせいせいするだと?馬鹿野郎!そんな訳ないじゃないか!!俺はお前がちゃんと卒業して自分の道へと進んで行くのを見届けなければ、納得行かん!!!」
そう言うと、壇ノ浦は横を向いてしまった。
その目には、今まで見せたことのないモノが光っていた。
「壇ノ浦……」
勇也は何とも言えない気持ちになった。
この人はこんなにまで俺なんかのことを思ってくれていたと言うのか、こんな俺を……
「木下!お前がそうしていたいなら俺はもう何も言わん!!とっとと何処へでも行きやがれ!!」
「…………」
「消えろと言うのが聞こえないのか!!」
勇也は仕方なく公園から走り去った。
「馬鹿野郎が……」



ドアが開いた。
唯の緊張は頂点に達した。
ガチャ!
しかし、出て来たのは純ではなく裕子だった。
唯は一瞬怯んだ。
「あれ、あの時の女じゃない……何の用よ?」
唯は暫く思い詰めたように黙っていたが、思い切って叫んだ!
「純を、純を返して!!」
「…………」
裕子は一瞬驚いたようだったが、それほど動じずにキッと睨み返した。
「純ちゃんは私のたった1つの希望なの!誰にも渡さないわ!ずっと2人で暮らして行くんだから……」
唯は裕子の強い意気込みに圧倒された。
何があっても諦めるようには見えない。
いつもの唯ならここで引き下がっていたかもしれない。しかし、今日の唯はそんなことでは引かなかった。裕子に言い返す!
「純と私は幼なじみなんだよ。純はいつも私を助けてくれた。給食に苦手なものが出た時、いじめっこにいじめられそうになった時……どんな時も純は私を見ていてくれた。それなのに、それなのに、突然あなたの元に行くなんておかしいよ!!」
裕子はすぐさま反論する。
「純ちゃんは私の心の支えなんだ。……私はずっと独りぼっちだった。幼い頃、親に捨てられて……それ以来、私はあちこちを転々として生きてきたんだよ。時にはいじめられ、時には引き取ってくれた人に捨てられたこともあったわ」
「…………」
「でも、純ちゃんは違った。本気で私のことを考えてくれる。初めてだった。私なんかのことを心配してくれたのは……」
「…………」
「もう独りは嫌なの!私は誰かに頼って生きたいの!」
唯は言い返せなかった。裕子の悲しい過去を知ったからだ。
この女は、私よりもずっと辛い思いをして来たんだ。
私が、純がいなくなって寂しかったように、この女も親に捨てられて寂しかったんだ……
唯は黙ったままだった。
裕子を前にして止まっていた。
自分と裕子の状況を考えて、自分の方が負けていると思ったからだ。
これでは純を返して欲しいとは言えない。
言えない……
そんな唯を見て、裕子は更に攻撃した。
「解ったらもう帰りなさいよ!私からこれ以上何も奪わないでよ!!」
「…………はっ!」
その時、唯は思った。
裕子が奪われたモノ―――――
それは両親の愛情だったのではないか。
この女は純を、いや愛情を注いでくれる人が欲しいだけなんだ。
「……あなたは誰でもいいんじゃないの?あなたは純に家族の温もりを求めているだけじゃないの……」
「な…………」
その言葉は、裕子の胸に深く刺さった。
全くその通りだったのかもしれない。裕子が必要としてるのは、純ではなく、温もりだった。
裕子は滅茶苦茶に大声を上げた。
「いや!!いやああああ!!絶対に渡さない!!!渡さないわあああああ!!!!」
バタン!!!
激しくドアが閉められた。
「ま、待って!純に、純に会わせて!!!!」
ドアを無理矢理開けようとする。
ガチャ!
鍵まで掛けられてしまった。
「純に……純に…………」
唯はその場に崩れた。
さっきまでの自信は完全にうち砕かれていた。
唯の大声を訊いた由美子が階段を駆け上がって来た。
「こうちゃん、どうしたの!!―――はっ!」
由美子は絶句してしまった。
なぜなら、唯が魂の抜けた抜け殻になっていたからだった。



唯は黙々と歩いていた。
由美子はそんな唯の後ろを歩いていた。
今の由美子にはただ見守ってやることしか出来なかった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ねえ、今回駄目だったからって諦めちゃ駄目だよ。人間押しが肝心なんだからさ……」
すると、唯はゆっくりと振り返った。
「……もうそんな気休めはいいよ。これ以上頑張ったって結果は見えてるよ……」
由美子は言い返せない。
唯の目が希望を失っていたからだ。
今回は今までとは違う。
直接押し掛けているのだ。
その失敗のダメージは尋常ではない。
2人はその場に立ち尽くしてしまった。


ちょっとしてから、2人は加佐未センター街までやって来た。赤信号の前で止まる。
由美子は唯の顔をちらりと見た。
そして、その顔に恐怖心を覚えた。
唯が今にも道路に飛び出して死んでしまいようだったからだ。
怖くて唯をこのままにしておけなかった。
由美子は何とか励ましてやろうと思った。
「こうちゃ――――」
その時だった。
反対車線に純の姿が現れたのは。
「純!!!」
唯は慌てて駆け出した。まだ赤信号だ!!
「馬鹿!こうちゃん!!!」
純も由美子の叫び声に気付いたらしく、慌てて止めに入ったが遅かった。
猛スピードで車が迫って来た。
「!!」
唯はそれを見た瞬間、恐怖で動けなくなってしまった。
引かれる――――!!
ドカッ!!!!!



「…………」
何が起こったのか解らなかった。
「―――――!!」
唯の前に由美子が横たわっていた。
唯は錯乱する。
純が唯の所に走って来たのはその時だった。




25

唯と純は手術室の前にいた。
今、由美子の緊急手術が行われているのだ。
唯は泣きじゃくっている。
「私のせいで、私のせいで由美子が!!」
由美子は唯をかばって車に跳ねられたのだ。
血がいっぱい流れていた。
意識がなかった。
「私がもっと注意していればこんなことにはならなかったのにいいいいいい!!!」
純はそっとハンカチを差し出す。
「……ありがと。何か昔よりも随分落ち着いたね」
純は微笑む。
「唯こそ、なんか雰囲気変わったで。随分女らしくなった気がする」
「……何か変な感じね」
「……そうやな」

唯にとっては2ヶ月ぶりの再会だった。
長かった……
本当に長かった。
以前とは違い、2人はお互い妙に意識するようになっていた。
2人は、暫く見つめ合ってしまった。


すると、そこに流山が駆け込んで来た。
「あれ、流山やないか。どうしてお前がここに?」
「ハアハア……そんなことはどうだっていい!み、水島さんは?」
流山は酷く息を切らしていた。
「今、手術中なの……」
「そうか……」
流山は心配そうに手術中と赤く光るランプを見つめた。それもどうも落ち着きがない。
いつもの冷静な男ではなかった。
唯はそんな流山の気持ちを感じ取った。
「流山君、由美子が好きなんでしょ」
流山はビクッとして後ろを向いてしまった。
「馬鹿野郎!そんな訳ないだろうが!!ただ俺は……」
「ただ?」
「このまま水島さんにもしものことがあったら、自分を見失うかもしれない」
唯は嬉しそうに言う。
「それを好きって言うんじゃないの?」
流山は一瞬怯んだが、すぐ反論する。
「俺は女になんか興味はない!もう帰る!!」
そう言うと、流山はその場を去った。
唯はニコニコしていた。
「流山君、多分その辺で待っていると思うわ」
「えっ!奴は帰るって言うとったやないか」
「ふふ、女の勘て奴かな。ああいう性格だからここには居られなかったのよ、きっと」
「ふーん」
純は返事をしながら唯を見た。
2ヶ月前の唯とは何か違って見えた。
女の強さと言うのだろうか、何か辛いことを色々経験して来た。そんな気がした。
「そう言えば、勇也君は来てくれないね。ちゃんと連絡したのに……」
「勇也君……?」
純はその言葉を訊いてビクッとした。
やはり、まだ勇也のことが好きなのではと考えてしまう。
突然2ヶ月前と同じ感情が込み上がって来た。
「……なあ唯、お前木下のことが好きなんか?」
唯はハッとして純を見た。
その瞳はとても悲しげであった。
純はドキッとしてしまった。
とても女らしく、そして大人っぽかった。
こんな唯は初めて見た気がした。
唯はゆっくりと話し始めた。
「私ね、確かに勇也君が好きだよ。私と共通の趣味を持ってるし、一緒に居て楽しいし、何か守ってあげたいような気がするから」
「…………」
純の表情が暗くなる。
「でもね、私、純が姿を消して初めて解ったの。自分にとって、純がどんなに大切な存在かが。私、いつも純が側に居てくれるのが当然だと思ってた。だから純が男子高に入った時、何か嫌だった。あの時は単に純と別々になって何か調子狂うなと位しか考えていなかった。……でも解ったの。私は純が好き!何処にも行ってほしくない。いつまでも私の側に居てほしいの!!!」
「唯……」
純は驚いた。
唯がここまで自分のことを必要としてくれてることに。抑えられていた感情が沸き上がる。
「……唯」
「えっ!」
「わてはずっと唯のことが好きやった。幼い頃からずっと……だから、いつも唯の側に居たかった。守りたかった」
「純……」
「唯、お前はなかなかわての気持ちに気付いてくれんかった。由美子などには初めて会った日に見透かされたんやが」
「由美子の奴……」
「唯が木下の奴が好きやと言った時は本当にショックやった。この世の終わりかと思った。だから木下が合宿に行ってる間に何とか唯を振り向かせたかった」
「…………」
「しかし、結局出来んかった。絡まれてた裕子を助けてしまって……あの日、裕子とキスしてる所を見られた時、もう駄目やと思った。そんな意志の弱さがたたったんやろうな。わては裕子を求めてしまった。すまん!今まで……そして今も……」
唯は大粒の涙を流して純に抱きついた。
「そんなことはどうでもいいの。純が側に居てくれれば」
そう言うと、唯は純に熱いキスをした。
純もそれに答える。
とても長い口づけだった。
2人は強く抱きしめ合った。
そして、いつの間にか誰もいない部屋で激しく愛し合っていた。



唯は服を直しながら純を見た。
「由美子が辛い思いをしてる時に私は……」
「ごめん、わてがこんな所で……」
「いいの。私、後悔してないから……」
「唯……」
そこには、少女から女になった唯の笑顔があった。


2人はゆっくりと部屋の外に出た。
近くには誰もいないようである。
ほっとため息をついていると、どこかで流山が叫んでるのが聞こえた。
どうやら由美子の手術が終わったようである。
「私、見てくるね」
「ああ」
唯は走って行った。
純はそんな唯の後ろ姿をぽーっと見ていた。
「ついにわては唯と1つに――――わっ!」
「唯と1つ?ヤっちゃったんですか」
なんと知らぬ間に勇也が目の前に立っていた。
状況が状況だけに、純はかなり焦ってしまった。
「ど、ど、ど、どうしてここに!!」
「久しぶりですね。神代さんとはうまくやってますか」
「……お前、何か元気ないな」
「俺のことなど気にしないでください、馬鹿らしい」
純は勇也がいつもと違うとすぐ解った。
それと、以前は勇也に対して激しい嫉妬心を持っていたはずなのに、今は逆に親しみさえ覚えていた。
「何かあったんか?」
すると、勇也はキレる。
「だから気にするなと言ったじゃないか!!彼女とうまくいっている先輩なんかにゴチャゴチャ言われる筋合いはない!!!」
勇也は手術室の方へと歩いて行ってしまった。
純は勇也の目に寒気を感じていた。


勇也と純が手術室の前に来ると、唯と流山が医者に話を訊いていた。
「あ、勇也君も来てくれたんだんね」
「まあ一応神代さんの頼みだからね。ほんとはあまり来たくなかったんだけどね。俺は水島さんには嫌われてるし……」
唯もすぐに勇也がおかしいことに気付いた。
しかし、唯には由美子の様態を伝えることが先だったらしい。
「純、勇也君、訊いて。あのね、由美子助かるんだって。手術が成功したんだよ!」
「そうか、それはよかった。これで一安心やな」
唯が流山を見ると、なんとも落ち着いた顔をしていた。これが彼なりの喜び方なのだろう。
「流山君、よかったね」
「ば、馬鹿なこと言うな。なんで水島さんが助かったからって俺が喜ばなきゃならないんだ!……俺はもう帰る!!」
そう言うと流山は走り去った。
「どうせその辺で待ってるくせに……ほんと素直じゃないんだから……」
勇也は唯の様子を見て、純とうまく行ったのだと思った。しかし、それは勇也にとって苦痛でしかなかった。こんな時に他人の幸せそうな顔など見たくなかった。
勇也は歩き出した。
「あ、ちょっと、勇也君!」
唯と純は、由美子との面会は明日にならないと無理だと訊いてから、勇也の背中を追い掛けた。



勇也がチャリに乗ろうとすると、2人に呼び止められた。
「木下、待ってや。何があったのか話してくれんか?
なんか放っておいたら自殺でもしそうで怖い」
「…………」
「そうだよ、勇也君。悩み事はパアッと話して楽に
なっちゃいなよ。パアッと―――――あっ!!」
唯は突然大声を上げた。
「ど、どないしたんや、唯?」
「ちょっと!あの女はどうするのよ!!!」
「…………」
純はそれを訊いて立ち尽くした。
確かに誰よりも唯のことが好きだ。
だが、裕子を独りにはしておけない。
「唯、裕子にはわてが必要なんや。だから……」
それを訊くと、唯は顔を曇らせた。
しかし、今の唯は今までのようにウジウジとはしてなかった。
「もう、こうなったら2人とも私の家に来なさい!」
「へっ!?」
「私がとことん話につき合ってあげる。それに勇也君の悩みも解決してあ・げ・る」
そう言うと唯は純を睨んだ。
純は身動きがとれない。
「さあて、あの女を何とか始末しなきゃね」
「始末って、おい……」
「何言ってるのよ!私の処女を奪っておいて!!」
「ば、馬鹿、そんなこと大声で言うなや」
「……いいの。もう何も怖くなんかないわ!!私は強く生きるの!!」
その時、女と言う生き物は怖いと純は思った。
さっきまであんなに落ち込んで泣きじゃくっていたと言うのに……これも純と両思いになれたからであろうか。
「さあ、2人とも、行くわよ!」
唯は純と勇也の腕を掴んだ。
「こ、神代さん、何で俺まで……」
「何言ってるのよ!元々勇也君の話だったんでしょうが!!」
「そんな、離してくれ!」
勇也は唯の手を振り払おうとする。
「私に逆らうつもり?」
「……い、いえ」
勇也は従ってしまった。本当に以前の唯に戻ったようだ。
唯は純と勇也を引っ張って行く。
その姿には思い詰めた様子は微塵も感じられない。
そこにはある確信を得た1人の女性の姿があった。

続く