10.葛藤


10

加奈子は、久々に優の家にお邪魔していた。
優に誘われたのだ。
その日の優は、本当に機嫌がよかった。怖いくらいだ。
ニコニコしながら紅茶を入れていた。
加奈子には、その理由が大体分かっていた。
裕次と何かいいことがあったのだろう。
あづみと会ったあの日、加奈子が逃げ出した後に何があったのか知りたかった。しかし、訊けなかった。
暫くすると、優が紅茶とお菓子を持ってやって来た。本当にニコニコしている。
加奈子は、ゆっくりと味わって飲んだ。優の話を訊くのが怖かった。
「あれ、今日はジャスミンティなんだね。優ってこれ好きだったっけ?」
加奈子は、自然に優に話をさせないようにしていた。
しかし、優の一言で打ち破られた。
「あのね、裕次さんが好きなんだって」
「えっ……」
加奈子の手が止まる。
「裕次さん、前に喫茶店でバイトしていたことがあって、結構紅茶には詳しいの。それで裕次さんはジャスミンティが一番好きなんだって。ダージリンティも好きらしいけど」
「そ、そう……」
加奈子は胸がギュッと締め付けられた。
松登くんが、松登くんがどんどん遠い存在になって行っちゃうよ…
しかし、口には出さなかった。
「そ、そうなんだ…その松登くんがね…意外だな、ほんと」
加奈子は、ジャスミンティを飲んで誤魔化す。
「……」
「……」
何とも重苦しい雰囲気だ。
「加奈ちゃん、何か変だよ」
「な、何言ってんの、私はいつも通り元気じゃない。私、優と松登くんの仲を応援してるからね。頑張って」
「加奈ちゃん…」
もうバレバレの嘘だった。
加奈子のカップを持つ手は震えていた。
それでも、加奈子は笑っていた。優との関係を壊すまいと必死だったのだ。
そんな加奈子の姿を見て、優の心が締め付けられる。

優は、裕次とつき合うことになったことで、加奈子に対して優越感を抱いてるはずだった。
影で裕次と仲良くしていた加奈子にガツンと言わせたかった。
しかし――
逆にこっちの方が辛かった。
何なのよ、何なの?
どうして私が苦しまなきゃいけないの?
どうして…
私は自分の気持ちに正直に生きているのよ。
これは私が加奈ちゃんに対して後ろめたいことをしているからなの?
まさか、そんなことはないよね。

〜〜〜

しかし、この後ろめたい気持ちは続いていた。
裕次と会う度に、うれしさの裏にこの感情が強まって行くのが分かった。何ともやりきれない。
「優ちゃん、どうしてたの?」
裕次が心配そうに見る。
「あ、何でもないです」
「そうか、悩み事があるなら俺に話してくれよな。出来る限り協力するからさ」
「はい…」

裕次さん、あなたはどうしてこんなに優しいの?
私、怖いよ。その優しさが辛いの。

優は、裕次の手をギュッと握った。
「優ちゃん?」
「お願いです。何にも訊かずにこのままでいさせてください」
「…分かったよ。好きなだけ握っていてくれ」
「ありがとう、裕次さん」

2人はベンチに座って話すことにした。
「それでさ、最近怪しい男が谷川を彷徨いているらしいんだ」
「はい、私も訊いたことがあります。この前、うちの生徒が襲われたって」
「えっ、優ちゃんの学校の子だったのか?それじゃ他人事じゃないじゃないか。優ちゃんは可愛いんだから、気を付けてくれよ」
「裕次さん…」
「そんな奴が現れたら、絶対に俺が守ってやるからな」
優はドキッとしてしまう。
「は、はい!」
「しかし、うちの担任には参るよ…」
「どうしてですか?」
「俺が犯人じゃないかって言うんだ、冗談キツ過ぎるって」
「そんなことあるはずがありません!」
優はきっぱりと言う。
「そちろんだって。二度と馬鹿なことはしないよ」
上松が裕次のことを疑ったのは、あづみとの一件があったからだ。
やはり上松は、裕次を最低の人間として見なしているらしい。たまらなかった。
「最近、どうも上松の奴、カリカリしてるんだよな。そう言えば、加賀の奴もそうだな」
「えっ!」
「何か加賀の奴、俺を避けているみたいなんだ。一体どうしたって言うんだろ」
それを訊いて、優は止まってしまった。
あの試合の日のことが思い出される。

『如月さん、まさか松登の奴のことが好きだったのか!なあ、答えてくれ、お願いだ!』
『はい、私には裕次さんのことしか考えられません。ごめんなさい…』

「あっ…」
優は口を噤む。
「どうしたの、優ちゃん?」
すると、優は裕次に抱き付いた。目には涙が光っていた。
「一体どうしたって言うんだ、優ちゃん」
「ごめん、ごめんなさい。みんな私が悪いんです」
「えっ!」

優は、試合の日のことをすべて話した。
「そうだったのか、それで…」
裕次はすべてを理解した。
「ごめんなさい…」
「優ちゃんが気にすることじゃないよ。これは避けられなかったことだから。ちゃんと加賀に言ってなかった俺が悪い」
「そんなことは――」
「いいんだ。今度、俺が話してみる」
「……」
「しかし、試合の日に、優ちゃんまで来ているとは思わなかったよ。加奈子の奴だけだと思っていたのに」
それを訊いて、優の顔色が変わった。あのシーンが脳裏をかすめる。
「加奈ちゃんの話はしないでください!」
「ど、どうしたんだよ、そんなにムキになって…何か変だよ、優ちゃん」
「お願いです、やめてください」
「……」
優の目は本気だった。裕次は驚きを隠せない。
「…分かったよ、優ちゃんが嫌なら、これ以上何も訊かない」
「すみません」
「……」
「……」
暫く、沈黙が続いた。

優は何をそこまで恐れているのだろうか。
今、裕次とつき合っているのは優だ。既に関係を持ってもいる。
それなのに、何を恐れる必要があるのだ。
優にとって、裕次の中にある加奈子の存在が怖かったのか。
自分から離れて行ってしまうかもしれないから。

「あ、そう言えば、大切なこと忘れていたよ」
「えっ…」
裕次は、ベンチに座り直した。
「前に話したことがあったよね、カブのこと」
「はい」
「夏に集中してバイトしたおかげで、やっと買えたんだ」
「ほんとですか、すごいです!」
すると、裕次は優の手を握った。優は真っ赤になってしまう。
「優ちゃん」
「は、はい」
「買ったらまず始めに、優ちゃんと乗りたいと思っていたんだ。ダメかな?」
「そんなことありません、喜んで」
裕次は、優に優しくキスをする。
俺は、優ちゃんが好きだ。
優ちゃんはいつも俺のことを考えてくれている。受け入れてくれる。
俺は幸せだ。

『松登くん』

「はっ!」
その瞬間、裕次は慌てて優を引き離した。
優は驚く。
「裕次さん、どうしたんですか?」
「な、何だ、今のは…今のは、まさか…」
優は、心配そうに裕次を見つめた。

「俺は…」

〜〜〜

加奈子は、1人でアール・グレイを飲んでいた。
気を紛らわしているつもりだ。
しかし、ダメだった。
優のことが、裕次のことが頭を回っている。
加奈子は、料理を作るのも好きだが、紅茶でティータイムを取るのも好きだった。
加奈子の好きな紅茶はアール・グレイだ。だから、優にも薦めた。
優もかなり気に入ってくれたらしく、加奈子がいつも優の家に押し掛けると、いつもアール・グレイとお菓子で迎えてくれた。
しかし、あの日から変わってしまった。
裕次と出会ってからだ。
最初は気分転換の為とハーブティを飲んでいたが、今は裕次の好きなジャスミンティを飲んでいる。
優の家から、アール・グレイが消えてしまったのだ。

加奈子は、カップの中の紅茶に自分の顔を映す。
その中の加奈子は揺れていた。
それは、単にカップを手に持っているからに過ぎないかもしれないが、まるで加奈子の心の内を表しているかのようだった。




ピンポーン♪
その時、呼び鈴が鳴った。
加奈子はゆっくりと腰を上げる。
「宅急便かな?」
加奈子は、印鑑を持って扉を開けた。
「あ、あなたは!」
加奈子は驚きの余り、印鑑を落とした。
「ども〜!ええと、あの〜」
「佐伯加奈子です!」
「そうそう、佐伯さんだったよね」
「『よね』じゃないよ、どうしてあなたがここに!」
「いや、ゆっくんの家に行ったら、ここかもしれないって言われたの」
「矢吹さん、松登くんがうちに来る訳ないでしょ」
「ど〜して〜?」
なんと、その子はあづみだったのだ。

それから数分もしないうちに、あづみは加奈子の家に入り込んでいた。
ソファに座って、加奈子が飲んでいた紅茶をちゃっかり飲んでいる。
何と根性が座っているのだろうと、加奈子は感心していた。
「佐伯さん、家に上げてくれてありがと。私、行く所がなくて困ってたの」
「どう言うことよ」
加奈子は、強い口調で答える。
「あの、もう少し普通に話さない?何か声がコワイんですけど…」
「いきなり押し掛けてきて、そんな態度見せるからじゃない。そんなに親しい仲でもないのに」
「まあまあ、同じゆっくんを好きな者同士仲良くしましょ」
「なっ…」
加奈子は、呆れてしまった。
加奈子は、諦めてソファに腰を下ろす。
「それで、行く当てがないってどういうことなの?」
「それがね、この前こっそりゆっくんに会いに行ったのがパパにばれちゃって…大喧嘩の末に家出して来ちゃったって訳」
「……」
何か変わってる子だと思った。
しかし、家出してくる程とは…一体何があったと言うのだろうか。
「パパったら、ゆっくんに近付くなって言うんだもの。頭に来ちゃうよ…私、この2年間で女を磨いたのよ。もう子供なんかじゃない!それに、あと1年したら結婚だって出来るんだからね!」
「結婚…」
加奈子は、その言葉を訊いてドキッとしてしまった。
そうか、私はもう結婚出来るんだった。
その意外性を含んだ好奇心は、加奈子と裕次の結婚式を想像させる。
「松登くんと私が結婚したら…」
「あ、やっぱりゆっくんが好きなんじゃない」
「えっ!」
加奈子は慌てて口を噤む。
いつの間にか言葉に出してしまっていたらしい。
加奈子は、顔を真っ赤にして俯く。
それを見て、あづみは嬉しそうに紅茶をすする。
「これで、三角関係じゃなくて、四角関係ね。ますますやる気が出て来たかも♪」
加奈子は、あづみの言うことはイマイチ信じられない。
「どうしてそんなことが言えるの?私は、争ってまでして恋なんかしたくないよ」
「何言ってるの。そんなことじゃいつになっても恋人なんか出来ないよ」
「……」
「それに、たくさんの子の中から、自分を選んでくれる。それは自分に魅力があるってことだと思わない?女として一番嬉しいことだよ、これは」
「……」
加奈子は何も言えなくなってしまった。
あづみの言うことが的を射ていたからだ。

暫くして、あづみが口を開いた。
「ねえ、今ゆっくんとつき合っているのって、あの如月さんとか言う子なんじゃないの?」
「えっ…」
加奈子は、返事もせずに下を向いてしまった。
「やっぱりね。あのサ店での如月さんの言動を見てたら、一目で分かったもん。私が一番ゆっくんが好きなの、誰にも渡さない!って顔してたし」
「……」
「でも、あなたも同じくらいゆっくんのこと好きなんじゃないの?どうして告白しない訳?」
「わ、私と優は親友なんだよ。そんなことしたら、今の関係が壊れちゃうよ。私にはそれが耐えられないの」
「何なのあんた」
「えっ!」

ビシッ!

あづみは、加奈子の頬を叩いた。
加奈子は、頬を抑えながらあづみを見た。
あづみの目は真剣である。
「何様のつもりだって言ってるのよ!ちょっと虫が良すぎるんじゃない!」
加奈子は、圧倒されていた。
「そんなことしていて、如月さんが気持ちよくゆっくんとつき合えると思ってる訳?」
「えっ…」
「如月さんの為、如月さんの為って…結局は、自分が傷つくのを恐れているだけじゃない!」
「!」
「私は、例えライバルが親友だって構わない。正々堂々と勝負したい。もしそれで負けたとしても、私は誰も恨んだりしないよ。それは、私に魅力が足りなかったからだもの」
「矢吹さん…」


今まで、私は知らず知らずのうちに優を苦しめていたと言うの?
今のままでも、優との中にヒビが入ると言うの?

私と優、そして矢吹さん…
3人とも誰よりも松登くんが好きなんだ。

それなら

選ぶのは、松登くん


続く