7.今だけは
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- 広人は裕次に頭を下げた。
「済まない。俺が馬鹿だったばっかりに…」
「気にするなって。普段のお前の力が出せなかっただけだ」
「けど、4人抜きなんて無理だ」
「心配するな、俺がお前の分まで倒してやるって」
そう言うと、裕次は立ち上がった。
「おい、松……」
そこで声が出なくなってしまった。
裕次の顔は、今までに見たことないほどの真剣な顔付きになっていたのだ。
1対4という不利な状況が助長したということもあるだろう。
とにかく、声を掛けられなかった。
- 加奈子も、そんな様子を感じ取っていた。
自然と両手を握って祈ってしまう。
どうか、どうか、松登くんが勝ちますように。
でも、どうしてこんなに胸がドキドキしてるの?やっぱり私…
すると、横にいた由美子がボソッと言った。
「なんだ、先輩はあの人が好きなのか…」
「えっ!」
「さあ、試合が始まりますよ」
- 裕次は、次鋒戦に臨んだ。
「3人抜きしてやるぜ!」
相手は2人抜きしていたせいか、かなり息立っていた。試合開始とともに攻めに入った。
しかし、瞬時に裕次が目の前に現れた。
「なっ!」
「小手っ!」
相手はなんとかあます。しかし、すぐに竹刀が飛んで来る!
「面っ!はぁ〜胴っ!」
バシィィィン!
「胴あり!」
主審の声が響いた。加佐未北の次鋒は慌てふためく。
「な、何者だ、こいつ…」
「二本目!」
「でやぁぁ!面っ!」
「うわっ!」
バシィィィン!
瞬時に白旗が上がった。
- 加奈子は驚いた。まさか、ここまで強いとは思ってなかったからだ。
「松登くん……」
「あ、あの人すごい。悔しいけど、流山くんより強いよ…」
由美子も唖然としていた。
今まで見てきたが、裕次の出番などそうなかったからだ。大抵は、流山か広人辺りで決着がついていた。
- 中堅戦も、裕次の素早い攻撃で、相手は手も足も出なかった。白旗が上がる。
加佐未北の中堅は、すごすごと自分のチームの元へ帰って行った。
「あ、あいつ何者なんだ。化け物だぜ!」
その言葉と同時に、副将が立ち上がる。
すると、大将が口を開いた。
「川本、落ち着いて行け。奴の動きについて行くんだ。特に奴の三段技には注意した方がいい」
「言われるまでもない。悪いが向野には回さんぞ。俺が松登を仕留める」
「ああ、頑張れ」
すると、川本が裕次の前に立った。
互いに礼を交わす。
「松登、今日こそお前に一泡吹かせてやるぜ!」
「来い、川本!」
裕次も、川本に対して一喝する。
- 加奈子は、2人が会話していることに気付いた。
「どうして松登くん、相手のこと知ってるんだろ?」
「私も詳しくは知らないけど、加佐未北の副将と大将は全国大会まで進んだことがあるそうよ。もちろん、個人戦で。もしかしたら、松登さんのライバルかもね」
「松登くんのライバル!」
加奈子は、不安そうに見つめる。
「始め!」
「うお〜!面、胴ぉ!」
川本の先制だ。裕次は後ずさりする。
「松登お、今日こそお前に面をお見舞いしてやる!」
すると、裕次は竹刀を大きく振り上げた。
「悪いが、今日は負ける訳には行かないんだよ、川本!」
バシィィィン!
川本の右手にヒットする。
「小手あり。二本目!」
「ふざけるな〜面っ!」
「うおぉ〜小手っ!」
バシィィィン!
裕次は、左後ろにさばき抜いて、小手打ちを炸裂させた。
「小手あり、勝負あり!」
川本は怒りを隠せない。裕次を睨み付ける。
「て、てめぇ、馬鹿にしやがって…」
すると、向野が川本の肩を掴む。
「邪魔だ、川本」
「何だと!お前、何様のつもりだ!俺に指図する気か!」
「自分が弱いのを人のせいにするな、座れ」
「く、くそっ!」
川本は、向野の言葉に渋々引き下がった。
- 「松登、悪かったな。川本が色々と言ったようで」
「お前の謝ることじゃないぜ。さあ、勝負だ。今日の引退試合、お前と戦うのが楽しみで来たんだからな」
「こちらもだ」
「松登くん、頑張って……」
加奈子は、拳をギュッと握りしめた。
〜〜〜
- ちょうどその頃、1人の少女が中学校に向かって走っていた。
運動はあまり得意ではないらしく、かなり息を切らしている。
「はぁはぁはぁ、どうして裕次さん、教えてくれなかったの。今日が大切な試合の日だって。知ってたら、お弁当作って朝から応援に行ったのに」
- 一昨日、この前の約束通り、裕次と優はデートした。優は、ピンクのブラウスに、ちょっと丈の短いスカートを履いていて、とても可愛らしかった。
裕次は、映画に誘ってくれた。
優は、その中で恋愛映画を選んだ。優らしい選択である。
その時、優は悲しい場面を見て泣いてしまったのだ。
すると、裕次はハンカチを取り出した。
「優ちゃん、こんなボロっちいのしかないけど、よかったら使ってくれ」
「ありがとう。やっぱり裕次さんて優しいです」
優は胸がジーンとしてしまった。
私、もうダメ。裕次さんが好きでたまらないの。自分でも怖いくらい…
- その時、ハンカチを借りたままだったのだ。
あの後、加佐未センター街でショッピングしていたので、つい忘れてしまったらしい。
裕次に色々と服を選んで貰ったため、舞い上がっていたのだろうか。
だから、ハンカチを洗濯して、きれいにアイロンかけて、そして今日、裕次の家に返しに来たのだ。
そしたら、休みで家にいた父親に、今日は剣道の引退試合だと訊かされた。
そう訊いてはもういても立ってもいられなくなり、会場へと走り出したのだった。
- 「あ、見えて来たわ」
優は、息を切らしながら体育館の中へと入った。
すると、すごい人だった。
なかなか試合を見ることが出来ない。
「よおし」
優は、2階から見ることにした。
2階は吹き抜けになっているので、よく見えるのだ。
昔、この体育館を使っていたので勝手が分かっていた。こういう時は、この中学出身でよかったと思った。
- 2階には、この中学の現役生が数十人見ていたたけだったので、かなり見やすかった。
優は下を見た。
「あ、裕次さん!」
目のいい優は、戦っているのが裕次だとすぐ分かった。
垂に松登と書いてある人が、向野と書いてある人と戦っていたからだ。
そしてもう1人、よく知っている人を見つけた。
由美子と一緒にいる加奈子だ。加奈子は、心配そうな目で試合を見つめていた。
優は、加奈子がいることを不審に思った。
「どうして加奈ちゃんがここに?まさか、今日の引退試合のこと知っていたのに、私に隠して1人で…」
優は信じられなかった。
〜〜〜
- もちろん、優が来たことなど知る由もなく、裕次は向野と戦っていた。両者ともなかなか隙を与えず、一本も取れなかった。
「やるな、松登。さすがだ」
「お前もだ。毎回、勝ったり負けたりと良い勝負だが、この引退試合だけは勝たして貰う」
「それはこっちのセリフさ。うおぉ!」
向野が、小競り合いの状況を脱して攻めに入った。
「小手ぃ!」
裕次はあます。だが、その次の面打ちはかわせなかった。
バシィィィン!
竹刀の音が会場中に響いた。赤旗が上がる。
「松登くん!」
加奈子の声が響く。
すると、裕次はOKサインを加奈子に出した。
加奈子の不安な気持ちが安らぐ。胸がキュンとする。
「松登くん…」
- 優は、そんな2人のやりとりを2階から見ていた。
「どうして2人とも、あんなに仲がいいの?」
優の中に、嫉妬の気持ちが沸き上がって来ていた。
- 「松登、女にOKサインか?随分、余裕だな」
「うるせえ、俺は負けない!」
「二本目!」
2人は大きく声を張り上げて攻撃する。激しく竹刀と竹刀がぶつかり合う。
今度は、裕次が先攻した。
「小手ぃ、面っ!」
「はあっ!」
バシィィィン!
向野が受け止めるや否や、裕次は胴打ちに入る。
「胴ぉ!」
「させるか、はあ〜面っ!」
向野は、打ち落として面打ちに入る。
しかし、更に裕次は裏で応じ、左胴を打ち抜いた。
「胴あり!」
「松登くん、やった!」
加奈子は大声を上げた。
本当に緊張の連続だ。心臓がバクバク言ってる。
- 「はぁはぁ、これで一本ずつだな、向野」
「まったく、二段の腕前じゃないぞ…」
「お互い様だ。だが、今日は勝たせて貰う」
「女の為か、馬鹿々々しい」
「違う。高校生活最後の試合なんだ。最後くらい勝ちたい」
「俺もだ!」
「勝負!」
主審が叫んだ。
2人ともいきなり突っ込んで行った。どうやら、一気に勝負をつける気らしい。
竹刀を振り上げる!
バシィィィン!
会場中に竹刀の音が響く。
加奈子が見ると、2人とも止まっていた。
裕次は面打ちを決めていたが、向野も突きを決めていた。つまり、2人とも有効打突に至っていない。
相打ちだ。
「裕次ぃ!」
加奈子が叫んだ瞬間だった。
向野が小手打ちを決めた。
「小手あり。勝負あり!」
赤旗が上がった。
裕次が倒れそうになるのを向野が抱えた。
すると、裕次が向野の手を取って高々と上げた。
「向野、楽しかったぜ。またやろうな、いつか」
「ああ。またコテンパンにのしてやるよ」
そう言うと、2人は大声で笑った。
礼をしないので、主審に怒られたくらいだ。
加奈子は、その場にしゃがみ込んでしまった。腰の力が抜けるほど、緊張していたらしい。
しかし加奈子は、裕次と向野を見て微笑んだ。
「なんかいいな。あ〜ゆ〜の」
〜〜〜
- 大会終了後、加奈子は、裕次が1人プールの方へ行くのを見た。
「あれ、どうしたんだろ、松登くん」
後を追おうとすると、由美子に呼び止められた。
「先輩、今日はありがと」
「頑張ってね、片思い。私も応援するから。でも、流山くんてかなり頑固そう…大変かもね」
「大丈夫です。自分に正直であれば、いつか彼に思いが届くと思うから」
「!」
その瞬間、加奈子は優の言葉を思い出した。
『私は自分に正直に生きたいの』
「自分に正直に……」
「そうですよ。だって、自分の気持ちには嘘つけないじゃないですか」
「自分の気持ちには、嘘つけない…」
「あ、流山くんが出て来たみたい。それじゃ、今日はありがと」
そう言うと、由美子は流山の元へと走って行った。
あんなクールな水島が、流山くんに対してはこんなに変わるなんて…
自分の気持ち。
私の、私の気持ちは…
〜〜〜
- 「お疲れさま」
そう言うと、加奈子は缶ジュースを差し出した。
「サンキュ。でも、どうして俺がここにいるって分かったんだ?」
裕次は寝そべったまま受け取った。
すると、加奈子のミニスカートがヒラヒラしていた。
「お、おい、俺がいるんだから少しは警戒しろって。見えてるぞ」
裕次は、慌てて顔を背けた。
それを見て、加奈子は微笑む。
ほんとだ。優が言ってたみたいに気なんか使っちゃって。
- 加奈子は、裕次のすぐ横に座った。
裕次がゆっくりと起き上がる。
「しかし、加奈子が応援に来るとは思わなかった」
「私も。たまたま中学の前を通りかかってね、何か騒がしいなと思って中に入ったら、松登くんがいたのよ」
「へえ、やっぱり偶然てのもあるもんだな」
「松登くん、とってもカッコ良かったよ。私、見直しちゃった」
「おいおい、じゃあ今まではどう思っていたんだよ」
「はは、内緒だよ」
加奈子は一気にジュースを飲み干した。
「はあ、やっぱり緊張してたせいかな、喉がカラカラだよ。前に松登くんが言っていたことも、まんざら嘘じゃないかも」
「そうかもな」
そう言うと、裕次は缶を見つめたまま、黙ってしまった。
- 加奈子は、裕次の様子に気付いた。
「松登くん?」
すると、裕次は顔を俯けてしまった。目には涙が光っていた。
「松登くん、やっぱりあなた…」
「はは、悪い悪い。なんか急に悔しくなって来ちまってな」
そうだ。向野に負けたのが悔しかったのだろう。
裕次の体は、小刻みに震えていた。
「松登くん…」
「この試合、この試合だけはあいつに勝ちたかった。
高校時代の思い出として。俺なんかは大学に入れる訳ないし、もうあいつと戦えないと思うと俺……」
その姿を見て、加奈子は何とも言えない気持ちになった。
そっと裕次を抱き締めてやる。
「!」
「松登くん、泣いちゃいなよ。私が肩貸してあげるから」
「ば、馬鹿野郎…そんなこと出来るかよ」
「今日だけ、今日だけ泣いてもいいんだよ。そして、早くいつもの松登くんに戻って」
「加奈子…」
すると、裕次は声をかみ殺しながら、涙をボロボロと落とし始めた。
加奈子は、そんな裕次をそっと抱き締める。まるで、母親と子供のような感じだった。
- 私、やっぱり松登くんが好き。
もう自分を誤魔化しきれないよ。
でも、優は松登くんのことを真剣に愛してる。
だから、私の気持ちは松登くんには伝えられないよ。
今までの関係を壊したくない。
だから、今日この時間だけ、私は松登くんの側にいてあげたい。
今だけは……
〜〜〜
- その時、そんな2人を影で見ていた少女がいた。
「加奈ちゃんがどうして裕次さんを…」
優は、加奈子の跡を追ってプールの裏に来たのだ。
そしたら、加奈子が、泣いている裕次を抱き締めていたのだ。
優は完全に混乱してしまった。
加奈ちゃんが私に加賀さんを薦めたのは、裕次さんを取られたくなかったから?
それに、加奈ちゃんは最初から協力的じゃなかった。
それも、それもみんな……
- 優は駆け出した。
もう何もかも信じられなかった。
その場を去ってしまえば、悪い夢から覚めるんじゃないかと思った。
でもダメだ。ますます気持ちが高ぶって行った。
「キャッ!」
優は前をよく見ずに走っていた為、誰かにぶつかってしまった。
「す、すいませんでした。私が注意してなかったばっかりに…」
「いや、俺の方こそ…って如月さんじゃないか!」
「えっ!あ、加賀さん…」
それは広人だった。急に広人の顔が明るくなる。
「なんだ、如月さん、応援に来てくれたんだ。ありがとう!俺うれしいよ、如月さんが来てくれて」
普段の優なら、ここで上手くはぐらかしていたに違いない。しかし、今は加奈子の裏切りがショックで気持ちが高ぶっていた。
「違います!私、裕次さんの為に来たんです!」
「えっ!」
広人の顔色が変わる。
いきなり、優の肩を掴んだ。
「如月さん、まさか松登の奴が好きだったのか!なあ、答えてくれ、お願いだ!」
「はい、私には裕次さんのことしか考えられません。ごめんなさい…」
そう言うと、優はその場にハンカチを落として走って行った。
広人は、震える手でそのハンカチを拾った。
それは、優が裕次に返そうと思って持っていたハンカチだった。
広人は、ハンカチを握り潰す。
「松登、お前、最初から全部知ってて…俺を、俺を馬鹿にして如月さんと2人で笑い者にしてたのかぁ!」
広人は、辺りで驚いている人にも構わず、大声で叫んだ。
「許さん、絶対に許さんぞ、松登ぉ!俺の心を踏みにじりやがって〜よくも、よくも〜!」
竹刀を地面に叩き付けた。
その目は、完全に裏切りに対する怒りに満ちていた。
「松登…この借りは、この借りは必ず返させて貰う。必ずだ!」
その声は、辺りに響き渡った。
- しかし、裕次はそんなこと知る由もなかった。
この日以降、彼らの関係は大きく変わって行くのだった。
続く